NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『光る君へ』コラムをお届けします。
筆者紹介
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第40話 君を置きて
一条天皇と彰子の仲睦まじい関係。そしてライバルであった藤原伊周を追放したことで、藤原道長を頂点とした朝廷内の権力。中宮・彰子の女房たちの文化的で華やかなサロン。
そんな万事安泰とも思える一条朝でしたが…にわかに不穏な空気が流れだします。
それが、一条天皇の病。
平安時代の平均寿命は、男性50歳女性40歳と言われています。
当時、一条天皇はまだ30歳になるかならないか。4歳で即位してから在位25年が経っているとはいえ…まだまだ若い。譲位を考えるには反対意見も出るのは当然でした。
この時点で、一条天皇の皇太子は居貞親王。二代前の冷泉天皇の皇子です。一条天皇が退位した場合は、この人が次の天皇に即位するのはすでに決定済みでした。
ちなみに史実でも、居貞親王は一条天皇の後を継いで三条天皇として即位しています。
問題は…その次。
新天皇である三条天皇の東宮(皇太子)を誰にするか?という大きな問題が待っているのです。
もうひとりの候補が…敦成親王。現中宮・彰子が産んだ皇子です。
一条天皇は、敦康親王を東宮(皇太子)に!と望みましたが…道長の意を受けた藤原行成の説得もあり断念。
結局…道長の外孫である敦成親王を東宮とすることに決まるのです。
が。しかし。
ここでこの決定に激しく反対したのが…中宮・彰子でした。
彰子にとって敦康親王は、育ての親。自らの子である惇成親王と同じくらいに大切な存在でした。
この時点では、敦成親王はまだ4歳。すでに12歳。東宮となるには申し分ないところでした。
彰子とすれば…まずは大切に育てた敦康親王を帝位につけ、その次に敦成親王を…と考えていたのかもしれません。
そんな彰子の気持ちを思いやれなかった…道長の落ち度だったかもしれません。
『露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことご悲しき』
この意は、愛する人を残して世を去ることを嘆いた歌とされています…。