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【大河ドラマコラム】NHK大河ドラマ「光る君へ」第4話『五節の舞姫』

NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム

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こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『光る君へ』コラムをお届けします。

 

筆者紹介

こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均40泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。地理・歴史へも興味が深く、各所で好評を頂いております。

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こちらは毎週日曜日にお届けする【NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム】の記事をお届けしています。

 

 

第4話 五節の舞姫

ふむふむ!なかなかシリアスなストーリーになって来ましたね。

 

帝や上級貴族たちの前で、五節の舞姫という名誉な役目を仰せつかったまひろ。

 

しかし…その儀式の席で、まひろは居並ぶ右大臣家の中に三郎の姿を見つけてしまいます。

 

遂に三郎の正体を知ってしまったまひろ。彼が、母を殺した憎き右大臣家の御曹司と知り、まひろは大きく動揺します。当たり前ですよね。

 

今後…まひろと三郎はどのような関係を作っていくのか?ちょっとロミオとジュリエットみを帯びてきましたね(笑)

 

それにしても…あまり資料の残っていない平安時代の物語とはいえ…?仮にも貴族の娘であるまひろが、顔を隠しもせずに市中を出歩いたり、その辺の倒木に腰かけたり…?ちょっと心配な時代考証が散見されましたが、まあ、資料が残っていないからこそ自由に書けるのかもしれませんね(笑)

 

さて、散楽見物にいたまひろを連れて帰った藤原宣孝

 

この時、彼は面白い台詞を口にしました。

 

「身分の違いがあるからこその平安な世。身分の違いがなければ、世は乱れる。」

 

通常、平安貴族たちは宮中やそれぞれの屋敷で交流活動を行うことはあっても、市中を自らの足で出歩くようなことはしなかったとされています。

 

そこには、貴族と庶民という大きな身分の壁があり、その壁があるからこそ、世は安定するとされていました。

 

これ…時代に即して考えてみると真理かもしれません。

 

天皇や貴族といった上流階級だけで政治を行っていた時代は、庶民は命ぜられるまま従うのが常でした。

 

しかし。

 

そんな貴族社会に「武士」という下級階級が入り込んだことで…日本史は中世という新しい時代への扉を開くことになるのです。

 

まひろ(紫式部)らが生きた時代は、上代が終わろうとしていく時代。やがて、時代に不満を覚えた武士階級は、庶民たちを引き連れて革命を起こします。

 

その胎動こそが、平将門であり、平清盛であり…やがて源頼朝を産み、武士の世を作ることになります。

 

武士という、力を付けた下級貴族と庶民が台頭したことで…身分の壁が崩壊し、やがて平安時代は終わらせることになったのです。

 

現代でこそ、身分制の少ない平等な世の中に建前上はなっていますが、古代においては…そんな身分の壁こそが、世を安定させる礎だったのかもしれませんね。

 

まひろ(紫式部)が生きた時代は、西暦1000年前後と言われています。これは、平将門の乱(940年ごろ)よりもあとの時代。次の平清盛が生まれるのが1118年ですから、ちょうど世の中が動きだそうとするギリギリの時代に生きていたと考えると…なかなか興味深いですね。

 

人物紹介「花山天皇(本郷奏多)」

円融天皇の退位に伴って即位したのが「花山天皇」です。血筋的には、円融天皇の兄・冷泉天皇の子になりますね。

 

彼は、無類の女好きで奇行が目立ったとも伝わっています。曰く、即位式の最中に高御座に女官を引き入れた…とか、同時期に女官であった母とその娘双方を妾とし各々に子を成した…とか。

 

彼は、先帝の首脳陣にはそのまま役職を遺留させましたが、実権は自らの腹心である藤原義懐や藤原惟成、藤原為時(まひろの父)らに政治を任せました。

 

その結果…関白・藤原頼忠派、右大臣・藤原兼家(三郎の父)派、そして腹心・藤原義懐派と、三すくみ状態となり、政治の停滞が起こったとも言われています。

 

この状況に業を煮やしたのが、右大臣・藤原兼家でした。実は、花山天皇の跡を継ぐ皇太子には、兼家の娘が生んだ、円融天皇の子(懐仁親王)が立太子していたのです。

 

そこに天皇の女性問題が重なります。

 

花山天皇が愛した女御のひとりに藤原為光(兼家の弟)の娘がいました。寵愛を受け、懐妊した彼女でしたが…わずか17歳で死去してしまいます。

 

姫の死を受けて、花山天皇は大いに悲しみます。そして、ことあるごとに「出家して供養したい」と洩らすようになりました。

 

策謀家の兼家がこれを見逃すはずがありません。

 

兼家は、蔵人として側近く仕えていた自らの次男・道兼に「自分もご一緒に出家する」と天皇を唆すよう指示したと言われています。

 

道兼に誘われた花山天皇は、人知れず内裏から抜け出してそのまま元慶寺で落飾。それを見届けた兼家らは、三種の神器を確保し、あっという間に懐仁親王を即位(一条天皇)させます。まさにクーデターですね。

 

花山天皇はその後、太上天皇「花山院」として生きていくことになります。

 

この時に身を寄せたのが、播磨国書写山圓教寺でした。彼はその後、西国の観音霊場三十三箇所を巡礼します。これが、現在まで続く「西国三十三巡礼」だったりします。

 

花山院は41歳にて死去。19歳で無理矢理出家させられてから…20年以上もの間、上皇として隠棲していたことになりますね。

 

もしかしたら…?奔放な花山院のこと。退位後の方が生き生きと生活していたのかもしれません。

 

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