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【鹿児島】島津家歴代当主のお墓がズラリ!島津家墓地『福昌寺跡』が破壊されたのはなぜ?

『福昌寺跡』は島津家歴代のお墓がずらり並ぶ菩提寺の跡地!

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島津家歴代当主の墓所である『福昌寺』跡地。現在は、鹿児島県立玉龍高校の裏手に広がる、英雄たちの墓所です。

 

筆者紹介

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こちらの記事は【宮崎鹿児島種子島7泊8日旅行記】よりシリーズでお届けしております。

 

 

『福昌寺』の歴史と廃仏毀釈

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鹿児島県鹿児島市。市街地のやや北方に位置しているのが、島津家歴代当主の墓所でもあった『福昌寺跡』です。

 

江戸時代に国内有数の大名であった薩摩藩主島津家。その菩提寺であったのが『福昌寺』なのですが…なぜ、今は『福昌寺跡』とされているのでしょう?

 

実は、かつて島津家の菩提寺であった『福昌寺』は、薩摩藩で最大規模の大きな寺院でした。

 

その建立は1394年。室町時代のことです。

 

島津家7代目当主の発願によって作られたこの寺院は、最盛期には1500人もの僧侶を有し、寺領は1361石と、薩摩藩で最大の石高が与えられていました。

 

敷地内には、島津家第6代~幕末に活躍した第28代当主斉彬公までの歴代当主の他、その正妻や兄弟など一族の墓が建てられ、薩摩藩士に篤く敬われていたと伝わります。

 

そんな、薩摩藩第一の寺院であった『福昌寺』は現在、本堂他の建物は全て破壊され、その大部分が鹿児島県立玉龍高校の敷地へと変わってしまっています。

 

薩摩藩にとって聖地とも捉えられていた、島津家の菩提寺がなぜ?

 

この謎を解く鍵が、明治時代初期に吹き荒れた、ヒステリックな運動でした。

 

それは…「廃仏毀釈」と呼ばれる、仏教寺院破壊運動でした。

 

かつて日本国内では、神社(神道)と寺院(仏教)は同一のものとされていました。神社の中に寺もあり、それらは融合し不可分な存在として長らく共存して来たのです。

 

しかし…平和に共存していた神社と寺院の関係が大きく変わる事件が起こります。

 

それが…明治維新です。

 

江戸幕府が倒れ、天皇親政による新国家の設立は、あるジレンマを抱えていました。

 

それは国家近代化に天皇絶対主義を敷いたことにあります。本来、天皇神社神道の祭祀者でした。それを近代国家運営に純粋に反映させるためには、神社神道のみが正統で、寺院仏教と分離させる必要がある…とされたのです。いわゆる「神仏分離令」です。

 

明治新政府の首魁でもあった薩摩藩(鹿児島県)は、その影響を最も強く受けた地域のひとつです。

 

薩摩藩では、藩内にあった1616もの寺院が全て破却。2964人いた僧侶は全て還俗させられ、特権を剥奪されたといいます。これは、江戸幕府が民衆管理を寺院に委託していた(檀家制度)への反発もあったようで、民衆によるヒステリックなまでの寺院攻撃も激しく行われたとも言われています。

 

鹿児島県は、全国的にも「廃仏毀釈」の活動が激しかった場所と言われており、仏像なども全て鋳潰されたとされています。現在も、鹿児島県には国宝・重要文化財に指定された仏像はひとつもありません。これは、「廃仏毀釈」でひ

 

その影響は、島津家の菩提寺であった『福昌寺』も例外でもありませんでした。

 

明治2年に、島津忠義公の正妻が亡くなった際、その葬儀は神式で行われることになりました。このことが契機となり、藩内でほぼ唯一残されていた仏教寺院『福昌寺』も破却が決定。歴代当主の墓所だけが残されて、残りの建物などは全て破壊されてしまったのです。

 

こうして…かつて薩摩藩士たちに篤く敬われていた聖地『福昌寺』は姿を消し、現在のようにひっそりと墓所だけが残されることになってしまったのです。

 

島津家墓地の見どころ

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『福昌寺跡』である鹿児島県立玉龍高校の裏手には、島津家歴代当主の墓石が点在しています。


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近くには案内図があります。第7代元久公からはじまり、第16代義久公、第17代義弘公といった戦国時代に名を馳せた名将から、幕末の名君として知られた第28代斉彬公まで、数多くの有名な殿様たちがこの地に葬られています。


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ここ『福昌寺跡』は、通常無人です。いくつかの区域に分けられた墓所には、門が設けられていますが、鍵はかけられていません。


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参拝、ご見学に際しましては左記をお守りください。

・墓石や灯籠には風化などのため危険なものもございます。絶対に触れないでください。

・境内における事故等につきまして当方は一切の責任を負いかねます。その点ご了承ください。

・犬の散歩はご遠慮ください。

つまり、見学は門を開けて自由に行って良いようです。

 

ただし、自己責任で事故等には充分注意するように…また神聖な場所ですから常識を守って参拝見学をするようにしてください。


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門を開けてお邪魔します。敷地内はいくつかのブロックに分けられているようで、時代ごとに固まって墓石が配置されています。この黒門のエリアは戦国時代に活躍した当主たちが葬られていました。


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こちらは、戦国時代に九州全土を席巻した、第16代島津義久公の墓石です。九州全制覇まであと一歩のところまで迫りながら、豊臣秀吉九州征伐を受けて降伏せざるを得なかった人物です。


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こちらは第17代で、義久公の弟にあたる島津義弘公の墓石です。関ヶ原の戦いで、徳川本陣をに向かって突撃撤退を行った、軍神ともされる人物ですね。

 

戦国時代ファンとしては…このお二方の墓石には手を合わせずにいられませんでした…。ご冥福をお祈りして、墓所を辞去しました。

 

『福昌寺跡』へのアクセス/駐車場/所要時間

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島津家歴代の墓所である『福昌寺跡』は、鹿児島県立玉龍高校の裏手にひっそりと残されています。

 

お車の場合は、JR鹿児島中央駅からおよそ10分。九州自動車道の鹿児島ICからおよそ20分ほどです。

 

周辺は学校や住宅地が広がり駐車場がありませんので、幹線道路沿いのコインパーキングか、南洲公園の駐車場に車を置いて歩いて散策することをおすすめします。

 

公休交通機関の場合は、JR鹿児島中央駅から路線バスまたはタクシーでアクセスなさってください。

 

『福昌寺跡』の島津家墓地は大変広く、歴代当主の墓石は敷地内に点在しています。

 

今回筆者は、義久公義弘公の墓参を目的に訪れたので30分ほどで辞去いたしましたが、その他全員分の墓参するおつもりでしたら、60分ほどかけてじっくり訪れるのがよろしいかと思います。

 

【宮崎鹿児島種子島7泊8日旅行記】7日目。種子島より朝一番の高速船で鹿児島港へと戻り、市内の名所を回りました。この日は一番に訪れたのが、島津家歴代のお墓のある福昌寺跡。歴代当主のお墓にご挨拶をして、次のスポットへ向かいました。次回もお楽しみに!

 

『福昌寺跡』の基本情報

アクセス

九州新幹線 JR鹿児島中央駅より路線バス

九州自動車道 鹿児島ICより20分

 

営業時間

24時間

 

定休日

年中無休

 

入場料金

無料

 

駐車場

専用駐車場なし

周辺コインパーキング利用

 

アドレス

鹿児島県鹿児島市池之上町48

※鹿児島県立玉龍高校裏手

099-247-7000(島津興産)