NHK大河ドラマ『どうする家康』第45話コラム
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筆者紹介
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歴史の教科書的には、ここから江戸時代が始まり、徳川の天下が順風満帆にスタートした…と思われがちですが、当時の人々の気持ちは全くそんなことはありません。
そもそもが、徳川家康の立場は豊臣家の大老であることに変わりはありません。彼はあくまでも豊臣家の家臣であり、幼い豊臣秀頼を補佐する立場。
豊臣秀吉は、その天下を手中に納めるために「公家」ルートを選択しました。天皇を補佐する朝廷トップの地位として「関白」に任命させ、その権威を持って天下統一の題目としたのです。
一方、徳川家康は「武家」ルートを模索しました。源頼朝以来、武家の棟梁として「征夷大将軍」を任命されたものが天下を治める。
公家の豊臣、武家の徳川。
当時を生きる世の中の人々も、今が徳川の天下なのか?豊臣の天下なのか?よく分からない…というのが実情だったのではないでしょうか。
このあたりの構図は、日本史ならではの構図とも言えそうです。中国をはじめ他国では、天下を治める権威はひとつしかありません。ふたつの権威が並び立つ(並び立ててしまう)というのは、世界史的に見ても極めて珍しい国なんです。
さて…今回、二条城会見の様子が描かれました。
頼れる若武者へと成長した豊臣秀頼。反対に、老いていく徳川家康と、跡取りが凡庸なる徳川秀忠という構図。
もともと京都大坂という豊臣の人気が高いところで、この対比を見せつけられた民衆は…大いに秀頼贔屓になびいたことでしょう。
今回の主役は、この豊臣秀頼と、比べられる2代目将軍の徳川秀忠という二人のプリンスでした。
「父上が死んだ後は私と秀頼の戦になる」
「私は負ける!」
「負ける自信がある!」
全てが人並み、凡庸と評される秀忠の悲痛な叫びは、当時の彼の心情をよく表しているように思えます。
徳川秀忠は1579年生まれ
大坂の陣の始まる1614年の段階で35歳
家康は、そんな秀忠にこう呼び掛けます。
「そなたはよく受け継いでおる」
「弱いところじゃ」
そう。思い返してみれば、この物語がスタートしてしばらくは、徳川家康はウサギでした。弱く、優しく、甘い若殿。
この時点の秀忠と同じ35歳のころ、家康は、何をしていたか?
徳川家康は1543年生まれ
築山事件で信康切腹/築山殿殺害が1579年で35歳ごろ
家康の人生が長すぎて…あまり意識されて来ませんでしたが、家康が弱さを克服し独り立ちすることになる築山事件のころの年齢と、大坂の陣のころの秀忠は、ほぼ同年代なんです!
そして、戦の世を渡り歩いて征夷大将軍にまで登り詰めた家康と違って、秀忠はろくに戦経験もありません。
古代中国の思想家「孟子」が説いた王道と覇道の違い。
これからの世は武力をもって制する覇道ではなく、特をもって治を行う王道の世にせねばならぬ。
この時…王道政治を行えるのは、秀忠しかいない。
これが、勇武に優れる次男・松平秀康や六男・松平忠輝らを差し置いて、徳川秀忠を跡継ぎに指名した、家康の本意だったのでしょう。
武力をもって制する世代は、家康自らを含めて一切を掃討する。後は…頼む。
徳川の二代目将軍は…秀忠でなければならなかったのです。
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