NHK大河ドラマ『どうする家康』第37話コラム
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筆者紹介
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「お主は江戸」
小田原合戦が不可避となった時点で、秀吉の頭の中には仮想敵として家康の姿があったのかもしれません。
老いてようやく授かった鶴松という子供を得て、秀吉が考えたのは「豊臣政権の継承」だったことでしょう。なにせ、鶴松が生まれた当時、秀吉は既に53才。当時は「人生五十年」と言われていた時代です。秀吉もいつ寿命が尽きるか怪しい年代でした。
晩年に子を得た秀吉は、その子が天下人として豊臣政権を継承できるかを最も憂えたことでしょう。
その最大の障壁になるかもしれない存在が…まさに徳川家康その人でした。
関東という広大な領地を納める北条家を存続させれば、その当主に嫁を出している徳川の力が増す。
そうさせないためにも…北条家は何としても潰さねばならない。その上で…徳川家を元々の根拠地である三河から離さねばならない。
北条家を完璧に叩き潰し、その後に徳川家を移す。これこそ、秀吉が考えた豊臣政権の安寧のための方策でした。
家康を関東に追いやった際、秀吉はその根拠地を江戸にするよう命じたといいます。
当時の江戸は、隅田川の河口に広がる、葦の茂る湿地帯。まさにゼロから町作りを行わなければならない土地でした。
しかし。この秀吉の「お主は…江戸」の一言が、その後の歴史を変えることになります。
徳川家康は、秀吉の言葉に従い江戸を本城として、関東240万石を治める足掛かりとします。結果、徳川幕府の根拠地となり、現在まで続く大都市「東京」の礎となるのです。
現在の東京の繁栄は…この時の秀吉の一言「お主は…江戸」にあったとも言えるのです。
徳川家臣団も大名クラスに!
後の世に天下人となる徳川家康は、優秀な家臣団に恵まれていた武将でした。
創業当初は、石川数正、酒井忠次という両家老に支えられて勢力を拡大し、その後は徳川四天王と呼ばれる本多忠勝、榊原康政、井伊直政という優秀な家臣たちの力を大いに活用し、やがて天下を治めるに至ります。
小田原合戦の結果、徳川家康はそれまでの所領であった三河、遠江、駿河、信濃、甲斐という国々を失います。
その代わりに得たのが関東の国々でした。
・伊豆
・相模
・武蔵
・下総
・上総
・上野
合計で240万石にものぼる大封です。
この時、徳川家臣団にも一大名の家臣とは思えぬほどの領地が分配されます。
本来であれば、徳川家臣団は、天下人・豊臣秀吉の家臣のそのまた家臣。いわゆる陪臣に過ぎません。
しかし、徳川家康は豊臣政権下では破格とも言える240万石もの領地を与えられた特別な存在でした。
家康も、これまで尽くしてくれた家臣たちに報いる気持ちがあったのでしょう。広大な関東平野を家臣たちに分配し、それぞれに各地方を治めるよう差配します。
この時、徳川家臣団に与えられた領地は以下の通りです。
井伊直政の12万石を筆頭に、豊臣秀吉配下の独立大名にも匹敵するほどの大領が与えられているのが分かりますね。
なお、徳川創業期を支えた酒井忠次は、関東異封の時点で既に引退したようで、嫡男・家次に3万石が与えられています。しかしその功績に対して…少々恩恵が少ないような?
彼ら家臣たちがやがて…徳川家康の天下取りの主役になっていくのです。
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