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NHK大河ドラマ【どうする家康】第33話コラム 『裏切り者』

NHK大河ドラマ『どうする家康』第33話コラム

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こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。

 

筆者紹介

こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均35泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。地理・歴史へも興味が深く、各所で好評を頂いております。

 

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こちらは毎週日曜日にお届けする【NHK大河ドラマ『どうする家康』コラム】の記事をお届けしています。


 

天下の裏切り者・石川数正

後世、徳川家康が天下を取ってから、その家康を見限り出奔した石川数正は、「天下の裏切り者」と言われ、徳川家臣団から嘲りを受けました。

 

しかしそれでも、石川家は豊臣大名として存続し、現在にまで残る国宝・松本城を築城し、松本藩10万石の祖となります。

 

その後の石川家は数正の死後、長男・康長が継ぎます。彼は豊臣直轄の大名ながら徳川の寄騎として従い、関ヶ原の戦いの際は、徳川秀忠勢に組みして上田城攻めにも従軍します。ですが…父数正が家康を裏切ったという汚名は拭えずに、やがて大久保長安寺件に連座して改易。大名としての座を失います。

 

数正の次男・康勝、三男・康次は、浪人として放浪生活を過ごしたあと、大坂の陣の際に豊臣方として入城。戦国時代を終わらせる合戦では西軍として従軍して戦死します。こうして石川家は断絶するのです。

 

徳川家の家老としてその創業を支えた石川数正。対秀吉の交渉役であった彼は、天下の趨勢がよく見えていたのでしょう。このまま豊臣VS徳川として全面対決を続ける非を悟り、徳川家から出奔しました。

 

しかし逆に考えれば、石川数正の出奔は家康のためだったかもしれません。もしも彼の出奔がなければ…家康はあのまま勝ち目の無い玉砕を選択していたかもしれません。

 

言うなれば…自ら敢えて汚名を着ることで、徳川家を残し、やがて天下人へと押し上げた大功績者ともいえるかもしれないのです。

 

しかしここで…徳川家老としての石川数正は死にました。やがて、先ほど述べた通りに石川家は断絶へと向かいます。これも…数正は覚悟の上だったかもしれませんね。

 

ちなみに秀吉は、石川数正のように他家の家老を引き抜き、一大名として独立させる手法を多く取っています。秀吉にしてみれば、自分に恩を着せることになりますし、また元の大名にしてみれば、重臣を引き抜かれて弱体化することにもなります。なかなか巧い手ですよね。

 

不遇の御曹司・松平秀康

小牧長久手の戦いのあと、徳川家康羽柴秀吉と和睦します。そもそもが、織田信雄への非道を糾弾して挙げた兵。秀吉と信雄が和睦した以上、大義名分が立ちません。

 

その和睦の証しとして、秀吉は家康の子を人質として要求します。

 

この時に家康から差し出された人質が、次男・於義丸。後に秀康と名乗ることになる人物です。

 

彼は生母の身分が低かったこともあり、生まれながらにして家康から冷遇されます。その幼名すらも「ギギ」という魚に似ていることから於義丸と名付けられたほど。後に二代将軍となる秀忠の兄に当たる人物ながら、不遇の人生を送っています。

 

彼は悲運の御曹司として、羽柴秀吉の養子となります。養子とはいえ体のいい人質です。

 

しかしその後、家康と秀吉の仲が安泰となったことから役割を終え、羽柴家からさらに関東の名族・結城氏へ送られてしまいます。その後の結城秀康という名称の方が通りも良いかもしれません。

 

秀康は、徳川の天下が固まった後でようやく徳川家に復帰。しかし徳川の名乗りは許されずに「松平秀康」として福井藩祖となります。秀忠にしてみたら、頭の上がらぬ兄の家。福井藩は「制外の家」として特別な扱いを受けることになるのです。

 

この、石川数正の出奔と秀吉との和睦で…徳川家を取り巻く環境は大きく変わることになりました。

 

結果、これまでの石川数正酒井忠次という両家老に率いられた体制から、酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政による徳川四天王の時代へと移り変わっていくのです。

 

石川数正という重鎮を失ったことで…徳川家康とその家臣団は、強制的に次のステージへと変容することになるのです。

 

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