NHK大河ドラマ『どうする家康』第23話コラム
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筆者紹介
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忍び寄る悲劇の足音。家康にとって…人生最大の「どうする」が静かに忍び寄ってきています。
今回は、物語の中で重要な存在であった何人かの人物にスポットを当てて解説していきますね。
水野信元とその後
母・於大の方は三河国刈谷城主・水野家の出身。水野信元は於大の方の実兄です。彼は、三河と尾張の国境近くにある刈谷という要衝を押さえていた水野氏の棟梁として、織田と徳川を結ぶ重要な役割を担っていました。長篠の戦いの時点では、20万石以上の領地を有していたとされますから、織田の客将という扱いだったのでしょうか。
しかし…1576年、武田の拠点であった美濃岩村城へ内通した疑いを受けて、三河大樹寺にて処刑されます。実際に手を下したのは家康家臣の平岩親吉と言われています。
水野氏は信元の死後、弟の忠重が宗家を継ぎます。彼は織田信雄、豊臣秀吉、徳川家康の配下として活躍しますが、関ヶ原の戦いの混乱の最中に死亡。跡は子である水野勝成が継承します。
水野勝成は、家康の従兄弟として幕府からも重きを置かれ、備後国福山城主として福山城を築城し、幕府の西の重鎮として存在感を見せます。さらに戦国時代の生き残りとして島原の乱にも参戦しています。
久松俊勝とその後
母・於大の方が、松平広忠と離縁したあとで再嫁したのが久松俊勝です。
この久松俊勝は、水野信元粛清事件で義理の兄である信元殺害に寄与したことを悔い隠居します。彼の子らは、腹が於大の方であったために家康の異父弟とされ、他に兄弟のない家康からも重きを置かれました。
彼の跡は松平康元、松平康俊、松平定勝の三兄弟(いわゆる久松三兄弟)が継ぎます。兄二人は若くして死んだために宗家は三男の定勝が継ぎ、伊予国松山城を築きます。やがて、伊勢桑名藩へ移りますが、その子孫にはその流れから、幕末の主役のひとり松平容保が出ています。
お愛の方(西郷の局)の子供たち
今回突然登場したお愛の方は、その後西郷の局とも呼ばれる家康の側室のひとりです。生まれは豊橋に拠点を置いていた地方豪族の西郷氏とも言われていますが…彼女は家康の側室として子を二人生んでいます。
そのうちのひとりが、後に二代将軍となる徳川秀忠!彼女は秀忠を生んで10年後にこの世を去りますが、母を偲んだ秀忠によって、その死後正一位という極めて高い位を受けています。
もうひとりの子・松平忠吉は、関ヶ原の合戦で戦を始める先制攻撃をしたことでも有名です。秀忠の実弟としてその覇権をサポートするため尾張国を任されていました。本来であれば、彼の家系は後に生まれる御三家と同じ役割を担うはずでしたが、1607年に父家康よりも早く死去。尾張国は弟の義直が継ぎ、御三家筆頭として徳川幕府を支えました。
松平信康の子どもたち
家康の嫡男である松平信康と織田信長の娘である五徳姫には、二人の姫がいました。今回劇中でもひとりは登場していましたね。二人は登久姫と熊姫と名付けられ、信康死後は家康によって養育されました。
本来であれば、徳川宗家を継いでいた本家本流の娘。父である信康の死後、登久姫は松本藩主・小笠原家へ、熊姫は本多忠勝の嫡男・本多忠政の元へと嫁ぎます。
もしもこの後訪れる悲劇的がなければ…信長と家康双方の血筋を持つ娘として、天下を左右する存在になっていたかもしれません。
さて…ここにきて信長の圧迫を強く受けはじめた徳川家康。近々…家康の元に、悲劇を告げる知らせが来るはずです。あまり見たくないエピソードですが、『どうする家康』では、どのように描くのでしょうかね。
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