NHK大河ドラマ『どうする家康』第19話コラム
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筆者紹介
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三方ヶ原の合戦に敗れ…あわや滅亡寸前にまで追いやられた徳川家康。
大勝した武田軍は徳川の本拠地である浜松城を攻めることなく西へ進軍、家康は危うく難を逃れました。
さてこの時期の家康は、武田の脅威を免れ一時の安穏を送っていた時期。
この時期に産まれたのが今回の話の主役であったお万の方が産んだ子です。
その子こそが、家康の次男である於義伊(於義丸)です。ギギという魚に似ていたからということで名付けられたと言われています。あまり愛情を感じない命名ですよね。
於義伊は産まれてすぐに、母と共に家康の住む浜松城から追放されたと伝わっています。彼は、家康家臣の本多作左衛門重次の手によって匿われ、人知れず育てられました。
この子供はその後、数奇の運命を進みます。
於義伊が大きく成長した後、長男・信康の手引きによって父・家康と対面しますが、やはり家康は冷たく対応したと言われています。そのため、家康が後に豊臣秀吉の傘下に入った際に、人質としてこの於義伊を差し出します。そして秀吉は彼を養子として迎え入れるのです。
こうして於義伊は、秀吉と家康の一字ずつを取り『羽柴秀康』と名乗り元服します。このまま秀吉と家康の関係が安泰であったならば…彼は大きな存在感を示したでしょう。
しかし、子ができなかった秀吉は、家康の子を養子にし続けることをよしとしませんでした。ちょうと、関東の名族・結城氏から養子を請われたことで差し出したのが、この秀康です。以後、彼は『結城秀康』と名を変え、関東の小領主へと転落するのです。
関ヶ原の戦いののち、ようやく秀康は家康に一族として認められ、越前一国を納める大名へと立身します。そして、この時にようやく『松平秀康』と名乗りを変え、徳川本家の親藩と認められるのです。
福井藩は江戸時代を通じてこの秀康の系統が家を継ぎました。二代将軍となる徳川秀忠にとって、秀康は兄。将軍宗家を継いだとはいえ、兄とその一族には生涯気を遣ったと言われています。
家康の次男でありながら、数奇の運命をたどった松平秀康。彼も、この戦国の世が生んだひとつの悲劇かも…しれません。
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