こんにちは!旅人サイファです!
本日も日本人と稲作(後編)についての記事を続けます。
ヤマト朝廷による米作りの強制。
その米作り生活を取り入れなかった人々は『まつろわぬ民』『異民族』として迫害を受けることになります。
その圧迫の役割を担ったのが『征夷大将軍』です。実は『征夷大将軍』とは夷狄(異民族)を征伐する将軍という意味なのです。
『征夷大将軍』と言えば、源頼朝が開いた鎌倉幕府が浮かぶかと思いますが…そもそもこの幕府という言葉は、征夷大将軍率いる征討軍が拠点を置いた前線基地を言うのです。
東北地方へ遠征軍を起こし、東北の稲作化=ヤマト化に尽力した人物です。
こうして…縄文人たちはそれまで生活していた土地を奪われ、東北へ、そしてさらに北海道へ追われて行くことになります。
ヤマト朝廷に追われて逃げていった縄文人の末裔が、現在も北海道で生活している先住民アイヌと言われています。
こうして弥生文化圏で覆われた日本全土は、それ以降、米の生産こそを唯一至上の価値観として統治していきます。
それは、ヤマト朝廷から鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と政治形態を変えても受け継がれていくのです。
そもそも、米は東南アジア原産の暖かい地方の作物です。
本来…日本の東北地方のような寒い地域で育つ作物ではないのです。
にも関わらず、時の政権は常に租税の中心として米を求めました。
『米を作らねば人にあらず』
弥生時代から続くこの意識が、その後の日本人の意識の根底に流れています。
それは後の世の『士農工商』『商人蔑視』という概念の根底にもなっています。
江戸時代、各地の大名のうち最も広い面積を有していた大名は何家でしょうか。
それは恐らく盛岡藩南部家でしょう。
なにせ、現在でも本州最大の面積を誇る岩手県の大部分に加え、青森県の東半分も領地でしたから。
しかし、その南部家の石高はわずか10万石。
どれだけ面積が広く、山の恵みや海の恵みが豊富であったとしても…米の生産量だけが唯一絶対の評価基準であったかつての日本の価値観。
東北など、米作りに適さない地域に生きる人々が、どれだけその価値観に苦しめられたことでしょうか。
以前記事にしました、津軽と南部の確執も原因はここにあります。
津軽地方は、北東北でも随一の米どころ。津軽地方が南部領であれば…伊達家に匹敵する東北の大大名として君臨していたかもしれません。
こちらもまた先日記事にした能登輪島の白米千枚田のような…海岸線ギリギリの崖を切り開いてまで水田を開かねばならなかったのはなぜか?
という問いも、今回の話を読めば納得されるのではないでしょうか。
『米を作らねば人にあらず』
日本という国を語る際に、稲作は欠かせません。
神道には、米の豊作を願った儀式が数多く存在します。そもそもが、稲作のための宗教とも言えるでしょう。
当たり前のように身近にありすぎるがために、普段意識されにくい米と稲作。
この日本という国の根幹は、
米(稲作)
この3つが一体となったところから成立しているといっても過言ではないのです!
米はまさに日本人のアイデンティティそのもの。米と稲作抜きでは…日本人を語ることはできません。
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