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激烈!出水麓の郷中教育と『児請(ちごもうし)』山田昌巌の作った出水の気風とは!?【秋の鹿児島旅行記番外編】

こんにちは!旅人サイファです。

今回は薩摩藩の子弟教育についてのお話です。

先日記事にしましたが、江戸時代の薩摩藩は、他藩とはちがい、領域内に多数の支城『麓』を築き地方政治を行っていました。

中でも出水麓は、肥後街道の入り口。北を接する熊本藩との接点のため、藩内各所より屈曲の者を集めて、薩摩最強との誉れ高い出水武士団を作り上げました。

その出水武士団の基礎を作ったのが、出水麓三代目地頭『山田昌巌(しょうがん)』という人物です。

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この写真は大正六年に撮影されたもの。

『児請(ちごもうし)』というここ出水郷独特の儀式を撮影したものです。

完全武装した武家装束の大人たちに取り囲まれた中を少年が文を読んでいる様子がわかります。

特に…周囲の大人たちの視線の鋭いこと!

この当時は幕末の戦乱を実際に経験した元武士も多かったことでしょう。

この緊張感たるや…この一枚の写真からでもビシビシと伝わってきます。

まさに激烈!出水郷の郷中教育の厳しさを如実に現しています。

山田昌巌は、島津家の重臣・山田有信の長男として産まれています。

やがて父の後を継ぎ、島津藩の家老として活躍する山田昌巌。

実は、これも前に記事にした『関ヶ原の戦い』における、島津軍の決死の退却劇にも加わっていた一人です。

当時関ヶ原の戦いには、島津家から1600人の兵が参陣していました。

関ヶ原の戦い本戦では、西軍・石田三成に味方しますが、石田三成の横暴な態度に腹を立てていた島津軍は、三成の指示には一切従わずに戦場で不気味な沈黙を守ります。

やがて小早川秀秋による裏切りをきっかけに西軍が総崩れになるなか…島津軍は東軍のど真ん中を突っ切って退却するという思いもよらぬ撤退戦を行います。

その退却戦の激烈だったこと…当初1600人いた島津兵が自国薩摩へたどり着いた時…その人数はなんと80人まで減っていたと言われています。

詳しくはこちらで


山田昌巌は、大将島津義弘と共に帰還した80人のうちのひとり。

生死の瀬戸際を駆け抜けた、戦国時代の生き残りなのです。


薩摩藩は幼少期の教育を重視し、子供たちは各地方ごとで『郷中教育』として厳しく心身を鍛えられました。

ここ出水郷でも、郷士の先輩たちの手により独特の気風が醸成され、伝統的に『出水兵児(いずみへこ)』と呼ばれる男子を育んできました。

そのきっかけこそが…山田昌巌にあるのです。

この山田昌巌、晩年には島原で発生した島原の乱へも出水兵を率いて参陣します。

この時に、当時13歳であった嫡男松之助も出陣。国境警備の任につき見事にその任務を果たして凱旋します。

凱旋の際、国境警備隊は松之助を先頭に威風堂々と行進。

そして御仮屋に集合し、一斉に鉄砲を放って解散したと言われています。

この一連の儀式こそが『児請』の原型。

山田昌巌は、出陣式、武芸披露、帰陣式という『児請』の一連の儀式を毎年行うことを決め、出水郷の独自の郷中教育の柱として幕末まで受け継がれます。

現在、帰陣式を行った出水麓の御仮屋跡地には「出水市立出水小学校」が建てられています。

武士が武士として生きていたその場所で教育を受けた子供たち。

今も『出水兵児』の魂を受け継いでいるのでしょうね。

ちなみに毎年開催される「出水麓祭り」ではこの『児請』を再現された儀式が行われています。

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昨年はコロナ禍を受けて開催されませんでしたが、例年11月上旬、出水小学校校庭で行われる『児請』。

ぜひ一度訪れてみたいものです。(※写真は出水ナビより)

 

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