『鉄砲館』は火縄銃の聖地・種子島にある博物館
種子島の歴史といえば…火縄銃!そんな火縄銃と種子島の歴史を学べる博物館が種子島開発総合センター『鉄砲館』です!
筆者紹介
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種子島と火縄銃の歴史
種子島の歴史を語る上で欠かせないのが…火縄銃の伝来です。その「鉄砲伝来」のいきさつの中で、最も大きな役割を果たしたのが、第14代の島主(領主)である種子島時堯です。
ここ『鉄砲館』は、種子島家が治めた「赤尾木城」の敷地に建てられた博物館で、道を隔てた高台には種子島時堯の銅像が立っています。なお、本丸部分は中学校が建てられています。
『鉄砲館』の見どころ
『鉄砲館』の見どころは、火縄銃伝来の資料と、火縄銃そのものの豊富な展示資料です。
館内は、古代種子島の成り立ちや文化の紹介から始まります。種子島へは、縄文時代早くから人類が住み着いていたようです。しかし、南九州の縄文人を絶滅させたといわれている「鬼界カルデラ」の大噴火が直撃したことで…一時、種子島も壊滅したようです。
その後、環境が落ち着いたことで新たな人種・弥生人が集落を作りました。
(弥生時代)
弥生時代の種子島は、縄文時代の習慣が続き、狩猟採集漁労生活を行ない、貝塚が形成されていることから、本土の弥生文化とは大きく異なります。
しかし、弥生時代の三大要素である [稲・鉄・織物(布)に関連する遺物が島内の遺跡から数は少ないものの発見されており、本土との交流は行われていたと考えられていますが、その生活区域など詳細はまだわかっていません。
(古填時代)
種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓はつくられていません。このことは、種子島の文化圏が日本本土とは別であったことを物語っています。しかし、島内の
遺跡から南九州や南西諸島の人々との「モノ」 の交流は確認されています。このころの種子島の人々は南九州及び南島の文化を取り入れながら、種子島独特の豊かな文化を形成していたと考えられています。
この時代。種子島~奄美~沖縄に産するイモガイやゴホウラなど南海産の貝は,貝輪などの装飾品として交易されています。広田遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての埋葬遺跡で、I57体の人骨に伴い、約4万点の多彩な貝製装飾品が出土しています.
ふむふむ。なかなか興味深いですね。
鬼界カルデラの噴火を受けて、一度壊滅した種子島。やがて、弥生時代に新たに入植が始まりますが…本土と同じような古墳文化は成立しなかったようですね。
あまり知られていませんが、実は種子島とその周辺の島々は、一時期「多禰国」として一国級の扱いを受けていたことがあるようです。
種子島に派遣した使いの人達が 種子島一国の地図を献上した。その国は京から千里ほどの距離で 九州の南の海にある 髪を切り草の裳を着ている 稲は常に豊かで ー回植えると2回収穫できる。特産品は支子や荒子、海産物など多くある。
佐渡国や隠岐国、壱岐国、対馬国と同じように離島ながらひとつの国として扱われた時代があったようですね。この辺り、国のまま残った佐渡や対馬と、大隅国に吸収されてしまった多禰国との違いはなんでしょうか?
資料によると、多禰国が廃止されたはのは824年。
122年続いた多徴国の廃止
多徴国は道唐使船の南島路や南島人の朝貢ルートとして重要視されてきたが、設置当初から財政的に苦しかった。
宝亀8年 (777年) 以降、遣唐使船が南路 (大洋路)のみになると、多徴国の存在意義は次第に小さくなり天長元年 (824年) 大隅国に編人することとなる。
どうやら、大陸との交流ルートから外れてしまったことが要因のようです。こうして…種子島は大隅国に付属する離島のひとつとしてひっそりと歴史を紡ぐことになります。なおこの間、種子島では砂鉄が多く取れたため、製鉄、刀鍛冶の技術が大きく進化しました。
種子島の時代が動いたのが1543年のことです。
種子島南端部である門倉岬に、難破した船が着岸しました。
この船に乗っていたポルトガル人が持っていたのが…日本に初めてもたらされた火縄銃です。いわゆる鉄砲伝来ですね。
時は戦国時代の真っ只中。「タネガシマ」とも呼ばれたこの新兵器は戦国の世に革命を起こします。
当時の種子島14代島主「種子島時堯」は、この火縄銃の複製を命じると共に、領主、島津家へと献上します。また、紀州根来寺の僧侶や、堺の商人衆、また足利将軍家にも献上したことで、火縄銃は一気に全国へと拡散します。
しかし…もしも種子島一族や島津家が鉄砲技術を独占していたらどうなっていたでしょうか?もしかしたら…島津家の圧倒的な火力の前に、全国の諸大名はひれ伏したかもしれませんね。
ここ『鉄砲館』には、そのポルトガル人がもたらした当時とほぼ同じ時代の火縄銃も保存されています。種子島時堯がポルトガル人から購入した火縄銃は、ひとつが根来寺の津田監物に渡されましたが、残るひとつが種子島家の家宝として大切に保管されました。しかし、明治の西南戦争の際に焼失しています。ここ『鉄砲館』に保管されているものは、西村家(ポルトガル人と砂浜で筆談した人物)に家宝として残されていたものです。
この他にも、多数の火縄銃が展示されいますので、ぜひじっくりとご覧ください。
『鉄砲館』へのアクセス/駐車場/所要時間
種子島開発総合センター『鉄砲館』は、種子島の中心都市・西之表市の高台に位置しています。
高速船やフェリーの発着場所である西之表港からは、徒歩20分ほどでアクセスできますが、上り坂のため少々大変です。港からは路線バスもしくはタクシーでアクセスする方が良いでしょう。
種子島空港からは、車で30分ほどです。敷地内に無料駐車場も整備されています。
資料豊富な博物館ですが、ざっと見て回るだけで30分ほど。じっくり見る場合は45分ほどあると良いでしょう。
【宮崎鹿児島種子島7泊8日旅行記】6日目。この日は種子島の名所を回っています。種子島の象徴でもある火縄銃の資料豊富な博物館『鉄砲館』を見学した後は、お宿に戻り夕食を食べに出掛けました。次回は割烹料亭をレポートします。お楽しみに!
『鉄砲館』の基本情報
アクセス
西之表港より路線バス/タクシー
種子島空港より車で30分
営業時間
8:30-17:00
定休日
毎月25日
年末年始
入場料金
一般440円
高校生280円
小中学生140円
駐車場
無料駐車場あり
アドレス
0997-23-3215