NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『光る君へ』コラムをお届けします。
筆者紹介
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第47話 哀しくとも
時代がひとつ変わりましたね。
刀伊の入寇という異国人からの襲撃を撃退した藤原隆家率いる九州の国司たち。
彼らの活躍がなければ、対馬や壱岐は賊の手に落ち…場合によっては日本国の国境も動いていたかもしれません。
もしもこの刀伊の賊たちを日本の武者の手で奪還していなかったら…対馬や壱岐は賊たちの領地されていたか、もしくは日本国の支配を離れ浮き地となり、朝鮮領土に組み込まれていた可能性すらもありました。非常に危ないところだったのです。
しかし…刀伊撃退の立役者である九州の国司たちに対して、中央政府は冷ややかでした。
そもそもこの防衛戦は、朝廷の指示を受ける前に現地の判断で行われたもの。朝廷へ報告が届く頃には、既に藤原隆家らの活躍で刀伊の賊たちはあらかた追いやられた後だったのです。
中央の公卿たちには、事の重大さが響かなかったのでしょう。
京の都でのうのうと胡座をかいて議論に終止していた公卿たちと、現場で生死を懸けて戦った国司たち。
まさに…「事件は会議室で起きてるんじゃない…現場で起きてんだ!!」
ですよね。
結局、彼らに恩賞は与えられましたが、これはあくまでも最低限。歴史的な意味を考えると…少なすぎるほどでした。
しかしこの刀伊の入寇は、歴史の大きな転換点になりました。
平将門の乱以降、朝廷は公的な武力を放棄していました。しかし、全国の荘園を維持するために、中央貴族たちはみな私兵を雇い、現地の治安維持に努めるようになります。
刀伊の入寇で活躍したのも、そんな地方勤務の貴族が私的に雇っていた武者たち。
九州では、参戦していた藤原隆家の子孫が肥後の実力者「菊池一族」となったり、源知の子孫は肥前「松浦党」の祖となったり、平為賢の子孫が「伊佐氏」の祖となったり…と、鎮西武士団が形成されるきっかけにもなっています。
1019年 刀伊の入寇
1039年 源義家 誕生
1052年 平等院鳳凰堂 完成
1056年 藤原清衡 誕生
1118年 平清盛 誕生
1147年 源頼朝 誕生
こうやって並べてみると、やがて来る武士の時代が…もうすぐそこまで迫っているのがよく分かります。
藤原道長らが作り上げた平安貴族の絶頂期。その崩壊の足音も…もうすぐそこに迫っています。