『斗南藩』はこの地に!旧会津藩士たちの苦難の地!
《戊辰戦争で会津を没収された会津藩は下北半島斗南藩へと移されます…》
筆者紹介
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こちらの記事は【下北半島ひとり旅】よりシリーズでお届けしております。
「斗南藩」の歴史
幕末の動乱期、最も厳しい立場に追いやられたのが…会津藩松平家でした。
もともと会津藩は、徳川将軍家に連なる親藩大名。徳川幕府に最も忠実な尚武の藩として知られていました。
そんな会津藩でしたが…幕末になると立場が急変します。
京都守護職を任命された当初は、幕府と朝廷を繋ぐ役目を懸命に担い、時の孝明天皇からも厚い信頼を受けていました。
そして一時期は、薩摩藩などと連動して、政治の中枢にいましたが…大政奉還後に状況が一変します。
かつて追いやったはずの過激派である長州藩が勢いを盛り返すと、「これは仕返しのチャンス!」とばかりに、会津藩は厳しい立場へと追いやられるのです。
孝明天皇が崩御され、明治天皇が即位すると…もうその流れは確定的にされます。
新政府にも、スケープゴートが必要だったのでしょう。会津藩は、最後には天皇に歯向かった「朝敵」として、明治新政府軍の討伐を受ける身になってしまったのです。
ヨーロッパから輸入した最新装備を備えて進軍する新政府軍に対し、会津藩は抵抗せずに恭順を申し入れるも…その訴えは一蹴。こうして、抗戦せざるを得ない状況に追い込まれた会津城下は戦禍に巻き込まれることになるのです。
この会津戦争の結果、会津藩側の死者3000人を超え…戊辰戦争で最も大きな被害を受けた藩となりました。婦女子は、敵軍が城下に迫る前に、その多くが自決して果てたとされているほど。
結局、1ヶ月あまりの抗戦の後に降伏。そして朝敵とされた会津藩松平家は、領地を全て没収、藩主は謹慎刑とされてしまうのです。これは戊辰戦争を戦った諸藩の中でも、最も過酷な処罰でした。
この罪が赦されたのは、明治2年になってから。松平容保の子・容大は家名存続を許され、没収された会津の地に代わり、陸奥下北半島に新たな領地を与えらることになるのです。
こうして、復活を遂げた会津藩士たちが作ったのが下北半島をメイン領域とする「斗南藩」!
ちなみに「斗南」とは、「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)から取られたものとする説が一般的ですが…その裏には「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という影の意味が隠されているという説も伝わっています。
それまで各所で捕囚の身にあった旧会津藩士たちは、新たな希望を胸に意気揚々と下北半島を目指したといいます。その数は17,000人を超えたとか。
しかし…旧藩士たちにとって、下北半島の地は地獄にも等しい土地でした。
なにせこの地は本州の最北部。冬は極寒にさらされ、土地は痩せ作物などもほとんど取れない不毛の地。表高30,000石とされていましたが、実高はわずか7,800石だったそうですので…その苦しみは如何ばかりか。
意気揚々と乗り込んできた17,000人もの旧会津藩士たちは…新たに市街地を作り、切磋琢磨して新世界を作ろうと努力を重ねます。
しかし。
家も粗末、満足な衣類やまともな布団すら持ち合わせていなかった彼らは…次第に数を減らしていきます。このままでは収入を確保できないとして離散する家や外部に出稼ぎにでるもの多かったとか。
結局、明治4年に斗南藩(斗南県)は青森県に編入され消滅します。この後、旧藩主は東京へと移転。旧藩士たちも一家離散や会津へ戻る人間が相次ぎ、当初17,000人いた旧会津藩士たちは、明治7年ころには1/3以下にまで減っていたと言われています。
ここ、むつ市「斗南ヶ丘」は…そんな旧会津藩士たちが夢見た新世界の痕跡。今は草木生い茂る廃墟にしか見えませんが…彼らはたしかに、この地に希望を抱き日々送っていたのです!
「斗南ヶ丘」は、そんな旧会津藩士たちの夢の残り香が…わずかに残されているのところなのです。
『斗南藩史跡地』の見どころ
青森県むつ市の市街地から東方に数㎞。小高く上がった台地の上に…かつて旧会津藩士たちが夢見た理想郷の痕跡が残されています。
それが…『斗南藩史跡地』と呼ばれる場所で、現在は史跡公園として保存されています。この辺り一帯は、旧会津藩士たちが入植した場所で、ここに新たな城下町を作ろうと奮戦した夢の跡なのです。
会津戦争後、主君・松平容保は領土を全て没収され謹慎。藩士たちも身分を没収され禁固刑に処されていた会津藩の人々は、明治2年、ようやく叶った御家再興の一報を受けて、勇躍下北半島へと上陸してきました。
そして…ここ「斗南ヶ丘」の土地を領内発展の拠点とすべく、この場所に市街地を建設し始めるのです。
しかし…!現在の史跡公園の中は…彼らが夢見た市街地を物語るような痕跡はほとんど残されていません。草がボーボーに生えて…立ち入る人もわずか。いくつかの案内看板と東屋が作られているにすぎません。
ひとつの朽ちかけた看板に…この、場所のいわれが書かれていました。
斗南ヶ丘市街地跡
斗南藩が市街地を設置し領内関拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられました。
明治三年一戸建約三十棟とニ戸建約八十棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗り打ちを禁止し、十八ケ所の堀井戸をつくりました。そして市街地は、一番町から六番町までの大通りによって昼敷割され、一屋敷を百坪単位として土塀をめぐらせて区画したといいます。
しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。現在はわずかに残った土塀跡に当時をしのぶことができます。
新たな理想郷を作ろうと…厳しい環境の中努力を重ねたであろう旧会津藩士たち。彼らを思うと…涙なしでは読むことができませんでした…。ここでも多くの旧会津藩士たちが亡くなったんでしょうね。合掌…。
『斗南藩史跡地』の最奥には、高々と大きな記念碑がひとつ…ぽつんと佇んでいます。
なんてことない石碑に見えますが…これ、実は旧会津藩士の強い誇りと思いが詰まった石碑なんです。
昭和11年10月。朝敵とされた旧会津藩の土地「斗南ヶ丘」に1人の皇族が足を踏み入れました。
その妃・勢津子殿下が…実は松平容大の姪っ子なのです。
昭和3年に行われた、秩父宮殿下と勢津子妃の御婚儀は、戊辰戦争以来「朝敵」という汚名に押し潰されながら行き続けた旧会津藩士にとって…大変大きな出来事でした。快挙と言ってもいい。
かつては、天皇家からも将軍家からも、双方から厚い信頼を受けた会津藩。
しかしその後、時代に流されて…「朝敵」という強烈な烙印を押された会津藩が、この御婚儀によって再び天皇家との強い絆を結ぶことができた…。旧会津藩士にとってこの感慨はいかばかりか。
「やはり会津は逆賊ではなかった!!」
秩父宮殿下と勢津子妃の御婚儀は、天下万民にそれを広く知らしめ、会津藩の名誉を大きく回復させたのです。
本州の最果てである下北半島の、ここ「斗南ヶ丘」にまで足を運んで下さった秩父宮殿下への感謝と感激が…この「秩父宮両殿下御成記念碑」には込められているのです。
現在は「むつ市斗南岡」として…わずかに地名にその名を残す程度になってしまった、彼らの理想郷。その周囲には、かすかに土塀の跡だけが…今も物悲しく残されています。
『斗南藩史跡地』へのアクセス/駐車場
『斗南藩史跡地』のある斗南ヶ丘は、むつ市の市街地から東へ数キロのところに位置しています。
公共交通機関の場合は、JR下北駅からタクシーをご利用ください。路線バスもありますが、本数は少なく実用的ではありません。
お車の場合は、下北半島縦貫道路のむつ尻屋崎ICから5分ほど。むつ市の市街地からは10分ほどです。
専用の駐車場はありませんが、公園の入り口に数台は駐車できるスペースがありますのでこちらをご利用ください。
【下北半島ひとり旅】旅行記2日目。旧会津藩士たちが作ろうとした新たな拠点で彼らの苦難を体感しました。この後は、会津藩主が暮らした藩庁に向かいます。次回もお楽しみに!
『斗南藩史跡地』の基本情報
アクセス
下北半島縦貫道路 むつ尻屋崎ICより5分
営業時間
24時間自由
定休日
年中無休
入場料金
無料
駐車場
無料駐車場あり
アドレス
0175-22-1111