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【地理コラム】幻の100万都市『大岡山市』構想!岡山市と倉敷市は50年前に合併しているはずだった!?

中国・四国地方の首都として生まれるはずだった大都市『大岡山市』構想とは?

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1963年1月1日。中国四国地方の首都となるべく、全国で6例目の政令指定都市になるはずだった都市をご存知でしょうか?

 

1956年9月1日。この日は、全国に『政令指定都市』が成立した記念すべき日です。

 

この時に作られたのが、以下の6つの政令指定都市です。

横浜市(神奈川県)

名古屋市(愛知県)

京都市(京都府)

大阪市(大阪府)

・神戸市(兵庫県)

これらは、当時から全国的にも有数の大都市でした。この後は、しばらく新たな政令指定都市は生まれずに、1963年9月になってようやく、九州初(!)の政令指定都市北九州市が指定されてるに至ります。

 

しかし…北九州市に先立つ1963年1月1日、中国四国地方初の政令指定都市として、ある巨大自治体が生まれるはずだったのです。

 

その都市こそが…100万都市『岡山市』です!

 

筆者紹介

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岡山県には人口100万人の幻の大都市が生まれるはずだった!?

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え!?岡山市!?

 

10数年前に政令指定都市になったばかりだし、人口も70万人くらいしかいなくない!?

 

その通り。現在の「岡山市」は、人口70万人とちょっと。政令指定都市に指定された2009年の段階でも70.2万人の人口しか有していませんでした。とても100万人を超える大都市ではありません。

 

しかし実は、1963年1月1日に岡山市は、周辺の市町村と大規模合併を行い人口100万人を突破させ、全国6番目の政令指定都市となる…はずだったのです!

 

頓挫した『岡山県南百万都市建設計画』とは?


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1961年、当時の岡山県知事・三木行治は、驚くべき計画を披露しました。

 

その計画とは『岡山県南百万都市構想』!

 

この計画は、岡山市倉敷市、児島市の3市を中核として、周辺33市町村を合併させて人口100万人都市を建設し、全国6例目の政令指定都市を目指すというもの!

 

実際にこの「岡山県南百万都市計画」は、政府との折衝も順調に進み、1963年1月1日には『新生岡山市』が誕生、時を置かずして『政令指定都市』に指定される算段が建てられていました。

 

計画に参画する33市町村も合併には前向きで、「県南広域広域都市建設協議会」を発足させ、合併実行まで秒読み…となったところで、ある事件が発生するのです。

 

『新生岡山市』合併を阻止したのは倉敷市長の失踪!


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1962年、岡山市他の合併参加自治体の地方議会では、次々と賛成多数で議決されます。後は、『新生岡山市』合併調印式で正式に決定するだけ…というところまで進んでいました。

 

しかし、合併調印式の当日に事件が起きます。

 

なんと、合併の中核のひとつであったはずの倉敷市長が『新生岡山市』の合併調印式当日に、忽然と姿を消すのです!しかもなんと!合併調印文書にサインせず公印も押さないまま行方不明になるという前代未聞のボイコット!

 

この失踪のウラには、裏社会の団体からの圧力があったとかなかったとか…様々な噂が流されています。(真偽不明)

 

この倉敷市長の失踪は、岡山県を大混乱に陥れます。何せ、倉敷市長のサイン&公印さえあれば、『新生岡山市』誕生は法的にも確定するはずだったのですから!

 

結果として、この倉敷市長の失踪により、発足するはずだった『新生岡山市』誕生は見送られます。これで完全に潮目は変わりました。この事件の後、残る中核であったはずの岡山市と児島市も反対に回り、合併協議会から脱退!こうして『新生岡山市』となるはずだった大合併構想は暗礁に乗り上げてしまうのです。

 

この混乱を沈めるべく、国(政府)からも仲裁案が提示されるも…3市ともに拒否。さらに、合併構想の生みの親である三木岡山県知事が急死したことでジ・エンド。『新生岡山市』構想は、完全に瓦解するのです。

 

結果的に、たった一人の人間(倉敷市長)の失踪が…「岡山県に100万都市を作る」という計画を阻止し、廃案にまで追い込んだのです!

 

もしも1963年に『新生岡山市』が誕生していたら?

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もしも、倉敷市長が失踪せずに『新生岡山市』が誕生していたら、後の日本はどのようになっていたでしょうか?

 

これは、1960年~2010年までの岡山県南合併参画市の人口推移です。

岡山市倉敷市、児島市を中核として、合併構想に参画するはずだった西大寺市、玉島市、総社市玉野市の人口をひとまとめにしています。

 

もしも1960年代に『新生岡山市』が誕生していたら1975年には人口100万人を突破!2010年には人口130万人を有する大都市へと成長していた「はず」でした。

 

上の表は、当時の広島市と仮に『新生岡山市』が成立していた場合の人口を比較したものです。現在、中国地方を代表する都市である「広島市」を常に凌駕しているのが分かります。

 

仮にこの『新生岡山市』が成立していたら…この時点で中国四国地方の盟主は間違いなく岡山市が握っていたことでしょう。当初計画通りの区域が合併し『新生岡山市』が成立していたら、現在は人口130万人を超える、人口ランキング第10位の西日本第2の都市へと進化していたはずだったのです!

 

「中国地方」単体で見れば、広島市はその中央に位置しているため各地へのアクセスは悪くありません。

 

しかし「中国四国地方」として考えた場合、広島市と四国諸都市へのアクセスは非常に悪い。その点、岡山市から中国四国諸都市へのアクセスは悪くありません。「中国四国地方」の首都としては、岡山市の方が利便性は高いでしょう。

 

もしも岡山市が早い段階で100万都市となっていた場合、各省庁や全国企業の中国支店は岡山市に集中し、広島市よりも強大な、中国四国地方の首都として「岡山市」が君臨していたことでしょう。

 

さらに、早い段階で岡山市政令指定都市になっていたら、今ごろは瀬戸大橋を経由して「四国新幹線」が開通していたかもしれません。そもそも瀬戸大橋は新幹線が通せるだけのスペースが設けられて作られているのですから。

 

また、北九州市と並んで「広域合併による政令指定都市化の成功例」として、全国的に広域合併が流行していた可能性もあります。

 

結局、その後倉敷市と児島市は合併したものの、岡山市はこれに合流せず、独自に周辺市町村を吸収する動きを活性化させる方向へ舵を取りました。そして、本来の計画から遅れること43年後の2009年に、ようやく岡山市政令指定都市になることができるのです。

 

もしも、50年前に「岡山県南百万都市建設計画」が成立していたら…岡山市は西日本の中枢都市となり、現在とは違った日本の姿が出来上がっていたかもしれませんね。