鎌倉幕府は源頼朝が武士のために作ったものなのか?
『1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府』
『流罪人から天下人へと上り詰めた英雄』
源頼朝は、鎌倉を拠点に史上初の武家政権を打ち立てた英雄として知られています。
頼朝は、京都の名門の息子として生まれたものの、父の代にライバルである平氏との抗争に破れて、彼は若くして伊豆へと流罪にされてしまいます。
しかし、伊豆で地方豪族と結び付き、反平氏の旗を挙げて挙兵。緒戦の石橋山の合戦では破れたものの、房総半島へ渡って再起。やがて鎌倉に入り、東国武士団を集結させてそのリーダーとなります。そしてさらに、京都を牛耳る平氏一門を打倒し、朝廷より「征夷大将軍」の称号と東国の支配権を得るに至るのです。
この、頼朝が打ち立てた(とされる)『鎌倉幕府』ですが…後の世に「室町幕府」「江戸幕府」という、純粋な在地武士による武家政権ができたことで、ちょっとした勘違いが起きてはいませんでしょうか?
頼朝は「武士のための世」を作りたかったのかどうか?
そもそも…頼朝が打ち立てた鎌倉幕府は「武士による」「武士のため」の「武家政権」だったのかどうか?
源頼朝は、もともと京都の生まれです。出自も、天皇の子孫であり臣籍降下した貴族の一族です。平安時代末期に武力を司った一族の一員ではありますが、実態は「武士」ではなく「貴族」という方が近いでしょう。
彼は若くして平氏との戦争に敗れ、伊豆へと流罪になります。そこで初めて、坂東武士たちと触れあい、彼らが朝廷や平氏へ募らせている怒りを知るのです。
頼朝は、この坂東武士たちの怒りを利用します。
(彼らの反感エネルギーを利用すれば、憎き平氏打倒の兵を挙げられるかも知れない!)
逆に、坂東武士たちも、偶然手元に落ちてきた貴種を利用します。
(オレたちみたいな田舎者が個々で立ち上がっても誰も付いてこない。ここは源氏の血筋をリーダーに立てて、反平氏の兵を挙げさせよう!)
この挙兵は、当初(石橋山の合戦)では躓いたものの、逃げ延びた房総半島で更なるパワーを得て再起します。そしてあれよあれよという間に、坂東一円の武士たちをまとめ上げる一大勢力へと成長するのです。
1880年 頼朝、鎌倉に入り侍所設置
1183年 朝廷より東国支配権を承認
1185年 平氏滅亡、守護・地頭を設置
1190年 頼朝、右近衛大将・日本国総地頭に任命
1192年 頼朝、征夷大将軍宣下を受ける
実はこの時点では、いわゆる鎌倉幕府の支配領域は、東国をはじめとする一部に限られています。
『1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府』という有名な語呂合わせが誤解に拍車をかけていますが、1192年はあくまでも頼朝が征夷大将軍に任命された年に過ぎません。京都の朝廷が全国支配し、東国の支配のみを頼朝と鎌倉政権に委任した…という状態になったタイミングでしかないのです。
最終的に、鎌倉幕府が全国の支配権を得るのは、頼朝の死(1199年)のあと20年以上経った1221年の承久の乱以降のことです。
頼朝が打ち立てた鎌倉幕府は武士のための政権ではない?
そう考えると、この考え方は少し奇妙に見えてきます。
そもそも、頼朝は「武士のための世作り」をしたかったのかどうか?
後の世に「源頼朝=武家の棟梁」と神格化されたことでイメージが固定されてしまいましたが…そもそも頼朝は武士なのか?「武士のための世を作りたい」と思ったのか?
私は、ちょっと違うのではないか?と考えています。
なにせ、そもそも頼朝は天皇のそば近くで仕えた貴族の一員です。そんな彼が、天皇家を蔑ろにして武士のための政権樹立を強く願ったとは思えないのです。
当時の頼朝の感覚をごく卑猥に表現すると…
(憎き父の敵!平氏に一撃加えてやる!)
(あれ?いつの間に関東武士団のリーダーになってるんだけど?)
(あら。あっという間に平氏滅亡させちゃった)
(え!官位も上がるの!?こんなに領地もくれるの!?)
(いえーい!東日本は全部オレのもの!)
…くらいの感覚だったのではないでしょうか?
京都で生まれ育った頼朝にしてみれば、天皇家を取り潰して「源氏を頂点とした武士のための世を作る」など、夢にも思わなかったことでしょう。あくまでも天皇の代官として東国支配を委ねられた存在として認識していたのだと思うのです。
頼朝死後に鎌倉幕府は存在目的を変えた?
それでは…「武士のための世の中」を希求したのは誰だったか?
彼らにとって「源頼朝」は看板に過ぎません。彼を担げば、京都の朝廷や平氏に対して反旗を挙げられる!その大義名分として、源氏の若君を担ぎ上げたに過ぎないのです。
そう考えると…「真の鎌倉幕府は源頼朝が作り上げたものではない」とも言えるのではないでしょうか。
頼朝がしたかったこと
・平氏の打倒
・官位の回復
・自領の拡大
・自家源氏の復権・繁栄
板東武士たちがしたかったこと
・貴族からの理不尽な支配からの脱却
・武士たちの権利拡大
・自領での自治権獲得
つまり、武士のための政権を打ち立てたかったのは頼朝ではなく、北条氏をはじめとた板東武士たち。両者の目指すところは、はじめから合致していなかったのです。
こう考えると、源頼朝が作った鎌倉幕府と、彼の死後に北条氏らが運営した鎌倉幕府は、全く別の目的を持つ組織になっているのがよく分かります。
そしてこういう見方をすると、二代将軍頼家を暗殺したのも、三代将軍実朝の死後に源氏から跡継ぎを選らばなったことにも合点がいきます。頼朝の死後に政権を運営した板東武士たちにとって、源氏の血筋はもはや不要。源氏の看板を下ろした瞬間を持ってはじめて、鎌倉幕府は「武士による」「武士のため」の政権としてひっそりと再スタートを切っていたのです。
後の世に成立した「室町幕府」や「江戸幕府」は、足利氏や徳川氏といった、正真正銘の地方武士が建てた武家政権です。
彼らが目指したのは、はじめから「武士による」「武士のため」の政権です。そのため、その原型である鎌倉幕府も、「源頼朝が作った武士のための政権」と誤解されてしまっているのではないでしょうか?
頼朝が作った時点では、鎌倉幕府はあくまでも「貴族・源氏」による「東国の代官」。
それを、北条氏ら板東武士たちは、「武士による」「武士のため」の政権へと作り替えたのです。
そして、その武士による革命の最終段階が「承久の乱」でした。
この戦いで朝廷軍を打ち破り、天皇や上皇を島流しにする果断な処置を行ったことで初めて、鎌倉幕府は「武士による」「武士のため」の「全国支配」を成立させることになるのです!
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。鎌倉時代から明治時代まで続く、およそ650年にも及ぶ武士による政権の祖を作ったとされている源頼朝。しかし、真の武士の世を作ったのは、頼朝ではなく、その原動力となった北条氏をはじめとする板東武士たちでした。
『鎌倉幕府=源頼朝』という看板をかかげながら、「黒幕」として自らは表舞台に立たずに世を作り、後世の人々すら誤解させ続けた北条氏ら板東武士たちの恐ろしさを…感じさせずにはおれません!