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奄美大島は大和か?琉球か?『奄美は2つの文化が出会う島』

奄美大島は日本(大和)か?沖縄(琉球)か?奄美大島の歴史から考察!

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奄美はふたつの文化が出会う島!大和文化と琉球文化が融合する独特の文化こそが奄美の特色!

 

九州と沖縄の間に位置している奄美群島。最も大きな奄美大島を中心に、喜界島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島与論島…といった島々から構成される諸島群です。


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現在、この奄美群島は、鹿児島県に所属しています。それより南側は沖縄県になっており、その境目は与論島より北が鹿児島県、南が沖縄県とされています。

 

筆者は2022年の夏、初めて奄美大島を訪れましたが…その独特の文化と大自然に魅了されました。

 

島の風景は、珊瑚礁に囲まれた青い海と、マングローブなどの木々、そして石造りの家屋など、沖縄の風景に酷似しています。ところどころ、琉球文化を強く感じさせるところもありました。

 

しかし…その風景の中に、ひとつ大きな違いに気が付きました。

 

(あれ?シーサーが居ない…?)

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そうなんです!建物は琉球のような石造りが多いのに、屋根にも塀にも、沖縄では到るところで見かけるシーサーが居ません!

 

風景や建物は沖縄風ですが、細かいところが沖縄じゃない…!この、沖縄文化を取り入れつつ日本文化も融合させる…という点こそが、「奄美」の魅力なのかもしれません!

 

そこで、奄美群島の歴史を少し整理してみましょう!現在は鹿児島県に含まれている奄美群島ですが、実は古い昔、琉球王国に支配されていた歴史があるんです。

 

奄美大島の歴史

奄美世(あまんゆ)の時代

古代、奄美群島の島々に暮らす人々は、大和(日本本土)でもなく、琉球(沖縄)でもなく、独自の文化を築いて生活をしていました。集落ごとに共同体を築き、漁労や交易で生計を建てていたようです。

 

日本の歴史書には、古くは日本書紀の中に「海見嶋」として登場し、当時の大和朝廷と交流があったことが認められています。

 

この時点では、大和朝廷から役人が派遣されていたり、徴税が行われていたりという点は、記録がはっきりしていません。

 

平安時代の997年「長徳の入寇」という朝鮮人奄美人を主体とした大規模な略奪事件が発生しています。これは、大和朝廷による統制や徴税が強化されたことに対する奄美人たちの反乱とも言われています。

 

また、奄美大島の隣に浮かぶ喜界島には、大和朝廷(大宰府)の出先機関が置かれた形跡があるようです。奄美のその他の島々も、喜界島を拠点とした大和朝廷によるゆるやかな支配下にあったと考えても良さそうです。

 

鎌倉時代になると、源平合戦で敗れた平家一族が落ち延びて、奄美群島一帯を支配したという伝説もあります。

 

いずれにせよ、この時代までの奄美群島は、完全に大和でもなく、完全に琉球でもなく、独自の文化をもつ独立した「奄美」として成立していたようですね。

 

那覇世(なはんゆ)の時代

琉球(沖縄本島)が、中山王尚氏によって統一されると、琉球王国は北方の奄美群島まで支配下に置こうと進軍してきます。時はちょうど室町時代にあたる1400年ごろのことです。

 

琉球王国は、奄美群島の南端である与論島沖永良部島から徐々に支配下におきます。各島には領主階級である「大親」を任命して支配下におき、正式に琉球王国の領土としたのです。

 

1466年に、最後まで抵抗していた喜界島が陥落し、奄美群島は完全に琉球王国支配下に置かれました。この琉球王国による支配は、1609年までのおよそ150年にも及びます。この琉球時代のことを、奄美では「那覇世」と呼びます。この頃から、沖縄風の区分けである「間切」など、沖縄文化が流入します。

 

もしも、これ以前に奄美が正式な大和の領土と認識されていたならば、琉球王国の侵入は大和への侵略戦争ということになり、全面対決は免れなかったでしょう。しかし、大和の政権(この時は室町幕府)は、奪われた奄美を奪還しようとしたり、報復攻撃をしようとした形跡がありません。やはりこの時点では、奄美はあくまでも大和外と考えられていたのでしょうね。

 

大和世(やまとゆ)の時代

そんな琉球王国に支配された時代も…やがて終わりを迎えます。きっかけは、大和(日本本土)の戦国時代の終わりでした。

 

関ヶ原の戦いの後、江戸に幕府を開いた徳川家康は、薩摩大隅(現在の鹿児島県)の領主・島津忠恒に、琉球王国への進出を許可します。

 

戦国時代当時の日本は、世界一の鉄砲保有国です。そんな強大な武力を持つ島津軍は、1609年4月に奄美大島へ上陸し制圧。やがて徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、5月には沖縄本島首里城を接収、琉球王国を完全に支配下におきます。

 

薩摩藩は、奄美群島琉球から割譲させて直接支配地とします。薩摩藩は、奄美にサトウキビ栽培を強制するなど、過酷な支配を行ったとされています。この薩摩藩が支配した時代は「大和世」と呼ばれ、明治維新までおよそ260年続きました。この頃に、薩摩経由で大和(日本本土)の文化が色濃く流入したとされています。

 

近代

明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、奄美群島は鹿児島県の領域に組み込まれます。そして、国際的に曖昧であった琉球王国の処遇が決まる「琉球処分」が終わった1879(明治12)年、正式に大隅国へと編入されて、大島郡が設置されるのです。この時をもって、奄美群島は正式に日本領となったのです。

 

現代

太平洋戦争の敗戦後、奄美群島も沖縄や小笠原諸島と同じく日本本土から分割され、アメリカによって占領されていた時代があります。

 

奄美群島アメリカ統治時代は1945年9月~1953年12月までのおよそ8年間。沖縄占領は1972年まで続けられますから、およそ20年も早く日本へ復帰が認められたことになります。その後は、戦前と同じく鹿児島県所属となり、現在へ至ります。

 

まとめ

このように振り返ってみると…奄美群島は、日本(大和)と沖縄(琉球)を結ぶ架け橋として、非常に重要な存在だったことが分かります。

 

もしも日本本土と沖縄の間に奄美群島が無ければ…?恐らく沖縄は、日本との交流は薄くなり、より台湾や中国大陸との連携が深くなっていたことでしょう。その場合、日本領は種子島屋久島のラインまで。そして沖縄は独立国となっていたか、もしくは中国領土に組み込まれていた可能性が高いでしょう。

 

日本本土と沖縄のちょうど中間点に奄美群島があったからこそ…島伝いの交流が生まれ、現在の日本国の沖縄県として成立したとも考えられます。つまり、奄美群島が存在したからこそ、現在の沖縄県があるとも言えるのです!

 

まさに、大和(日本本土)と琉球(沖縄)を結ぶ架け橋としての役割を担った奄美群島。双方の文化を受け入れ、見事に融合させた独特の奄美文化こそが…この島のアイデンティティーとも言えるのではないでしょうか。

 

奄美は「大和と琉球、ふたつの文化が出会う島」なのです!