埼玉県の県庁所在地はなぜ、平仮名の「さいたま市」なのか?
埼玉県…数年前に「翔んで埼玉」という映画でもディスられた、東京の北に位置するベッドタウンです。
ここ埼玉県の県庁所在地は、なぜか平仮名の「さいたま市」という表記になっています。県名は漢字なのに、なぜか市名は平仮名…?これ、不思議に思ったことありませんか?
こんにちは!旅人サイファです。筆者は、旅行ブロガーとして、旅行、地理、歴史についての記事を執筆し毎日投稿を続けています。
毎週月曜日は、~都道府県No.2物語~として各県の人口ランキングを分析、あまり知られていない「県内第2の都市」にフォーカスを当てた記事を連載しています。
先日、【埼玉県第2の都市はどこか?】という記事を執筆するに当たって資料を調べていたのですが…この時、衝撃の事実をぶち当たりました。
なんと『埼玉県』は一歩間違えれば『足立県』になっていたはずだったんです!
『足立県』になっていたかもしれない埼玉県!
そもそも、「埼玉」県という名称はどこから取られたのでしょうか?
元々、埼玉県の周辺一帯は「武蔵国」という大国でした。現在の埼玉県と東京都全域、さらに神奈川県の川崎市横浜市部分を合わせたエリアです。
現在の埼玉県の県域は、この旧武蔵国の内、東京都と川崎市横浜市部分を削られて残った部分です。明治時代に廃藩置県の結果「埼玉県」になりました。
この「埼玉」という名称のルーツ…これ実は「郡の名前」です。現在の埼玉県東部にあたる、「武蔵国埼玉郡」から、埼玉県という名称が作られたのです。
しかし、よく地図を見てみると…?県の中心である浦和や大宮は、埼玉郡には属していません。浦和も大宮も、その所属は「足立郡」なんです!
埼玉県発足のキーパーソンは「岩槻」にあり!
なぜ、浦和や大宮は「足立郡」なのに「埼玉県」という県名になってしまったのでしょう?
そのキーとなるのは「岩槻」という町の存在にあります。
実は「埼玉県」が成立した当初は「旧武蔵国埼玉郡岩槻町」に県庁が置かれることが初めから決まっていました。そのため、岩槻町の属していた「埼玉郡」を県名として採用したのです!
だがしかし!
当時の岩槻には、県庁に値するだけの建物がありませんでした。当初は旧岩槻城を県庁とする予定でしたが、この岩槻城は湿地帯に作られた要害堅固な城です。防御力には秀でていましたが、政庁として統治するには不向きでした。
そのため、発足したばかりの埼玉県は路頭に迷います。なにせ、県庁として入るべき箱がない!そこで、彼らが選択したのは、お隣の宿場町、浦和での「仮の県庁業務」をスタートさせることでした。
中仙道の宿場町でもあった浦和は「仮の県庁」ながら、交通の便も良く、県域の中央寄りだったこともあって、非常に栄えます。
この、仮の状態のまま、浦和での県庁業務が何年も続けばどうなるか?…もうお分かりですよね。いつの間にか「埼玉県庁は浦和」ということで固定されてしまうんです。おいおい…岩槻の立場は…?
結局その後、そのまま浦和での仮の県庁業務は続けられ、岩槻に県庁の実質が戻ることは一度もありませんでした。
さらに明治9年、西部に立てられていた入間県が埼玉県に合併された際に『名称は埼玉県のまま、県庁は足立郡浦和のまま』という不思議な状況が正式に固定されてしまいます。
もしも、浦和への県庁機能移転が「仮の移転」ではなく「正式な移転」としていたら、今に残る『埼玉県』はその時点で『足立県』へと改名されていたことでしょう!
また、明治9年の入間県の合併時に「浦和の属している郡名を正式な県名に!」と運動が起きていれば、そのタイミングでも『足立県』に変えられていたかもしれません!
さいたま市はなぜ"ひらがな"?
ちなみに、現在の県庁所在地「さいたま市」の名称が"ひらがな"なのはなぜでしょう?
実は、さいたま市発足の際、漢字表記の「埼玉市」とする案も当然候補に挙がっていました。むしろ、住民投票では圧倒的なトップですらあったのです。
しかし!ここで横やりが入ります。
という物言いがついたことで…住民投票第2位でもあった、ひらがなの「さいたま市」に正式決定したのです。
ちなみに、2000年の合併当初には「さいたま市」に加わって居なかった「岩槻市」は、2005年になってようやく「さいたま市」への合併を果たします。現在は「さいたま市岩槻区」として、県庁所在地の一員に加わっています。
「岩槻」にとってみれば…明治4年以来、134年ぶりに復帰した、悲願の「県庁所在地化」でもあったのです!
結論!
なぜ「埼玉県」という名前になったか?それは「埼玉郡岩槻町」に県庁が置かれる"はず"だったから!
さいたま市と"ひらがな"表記になったのは、『埼玉』の本家本元「行田市埼玉」からクレームが入ったから!
でした!