『前橋VS高崎』のライバル関係は100年以上続く因縁から!
いやはや…恐ろしいものです!群馬県内のトップ争い!同一県内でのライバル関係は、常に相手が視界に入ってくるために、苛烈な争いになりやすいですよね!
例えば…
埼玉県の「旧浦和VS旧大宮」の争い。
長野県の「長野VS松本」の争い。
これらは、県としての成立過程で、諍いの種を残したまま同一県にされたために、現代までその火種が燻っている顕著な例です。
同じことが…北関東「群馬県」でも起こっています。
それが『前橋VS高崎』の熾烈なライバル関係!これ…かなり根深いんです。
現在の群馬県庁は前橋市!経済の中心は高崎市!人口トップはどちら?
現在は、群馬県の県庁は「前橋市」に置かれています。県庁だけでなく、国の出先機関や大企業の支店なども、その多くが前橋に置かれているので、当然、県内のあらゆるものが前橋優位だと…思うじゃないですか。
だがしかし!
実際はそう上手くいっていません!
ライバルの「高崎市」は、新幹線停車駅を持つという強みを押さえて、県内随一の商業経済の中心都市となっています。それどころではなく!2006年には前橋市を抜いて、県内最大の都市/人口が最も多い市へと成長しました。
高崎市にとってみれば、県庁所在地という「名」こそ前橋市に取られているが、「実」は断然高崎市が優勢!なぜ、前橋なんぞに県庁が取られているのか?と不満が燻っているのです。
群馬の県庁所在地は高崎だった!?
と、いうのも、実はここに衝撃の事実があります。
なんと!明治時代に、初めて「群馬県」が作られた際、群馬県庁は『高崎』に置かれていたのです!!
明治4年、第一次群馬県は、高崎を県庁所在地として発足しました。その県名の由来も、高崎が属していた「群馬郡」の名称から取られています。
しかし明治5年…
突如として、群馬県の県庁は「前橋」へと引っ越すことが決まります。
その要因は、高崎県庁となるべき場所が、陸軍に取られてしまったから!
群馬県発足当初「群馬県庁」が置かれていたのは高崎の中心部にあった「高崎城跡」でした。関東の北の守りとして、江戸時代を通じて機能していた高崎は、新たに作られた群馬県の中枢になるべく、県庁としても整備されていたのです。
だがしかし。
ここに軍部から横やりが入ります。
県庁として機能していた高崎城跡が、兵部省(軍部)の管轄下に入れられてしまうのです。
まさに青天の霹靂!突如として県庁の土地を失った群馬県は、苦肉の策として「県庁そのものを前橋に移す」ことを決めます。
こうして、わずか1年足らずで、群馬県庁は高崎の手から離れてしまうんです。
明治6年になると、群馬県は一度解体され、南部の埼玉県西部と合併「熊谷県」とされてしまいます。
しかしわずか3年後、明治9年になって熊谷県が解体されると、不死鳥の如く群馬県が復活!現在に続く第二次群馬県として再スタートを切ります。
この時、新生群馬県の県庁はまたもや「高崎」に置かれます。やはり東京からも近く、交通の便が良いというのは大きなアドバンテージだったんでしょうね!
大金の力で県庁を強奪した前橋!
だがしかし…またもやここで横やりが入るのです。
今回の横やりは…「大金」を持ってやって来ました。
明治時代、日本の最大の輸出品は「生糸」でした。蚕の作る「シルク」ですね。
実は前橋周辺は、日本屈指の生糸生産地。生糸という強い産業を持っていた前橋は「下村善太郎」という人物を中心に、前橋への県庁移転運動を起こします。
このとき下村らは、生糸で得た大金を積み上げ「県庁移転費用は全て前橋で持つ!」というほどの力の入れっぷり!
こうして明治14年、正式に国から「県庁を前橋に移す」という指令が出て、群馬県の県庁は前橋に移されます。
高崎の人間にしてみれば…「金の力で前橋に県庁を奪われた!!」のです!面白いはずがありません。
この時の県庁移転騒動は、大揉めに揉めます。なんと裁判まで起こされる始末!しかし結局、高崎の主張が通ることもなく県庁移転は決行され…現在まで、群馬県の県庁は前橋に置かれているのです。
現代まで続く『前橋VS高崎』の激烈なライバル関係。利根川を挟んで対峙する両市の間には、こんな抜き差しならぬ因縁があったのです!
他県の人間から見ると、
「お隣なんだから仲良く合併でもすれば良いんじゃないの?」
…と思ってしまうものですが、特に高崎市の抱える恨みは非常に深い!
特に、経済と人口で逆転してからは、常にライバルの前橋市を恨み!嘲り!そして見下すことで、その溜飲を下げています。
『前橋VS高崎』の激烈なライバル関係は…しばらく収束することは無さそうですね。