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【鎌倉殿の13人】ざっくりコラム 第28話 名刀・梶原景時は鋭すぎたか…

こんばんは!旅人サイファです!

NHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】ざっくりコラムをお届けします。

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あっという間に瓦解した13人の合議制。まずは、中原親能が頼朝と政子の次女三幡の死去と共に離脱。そして、鎌倉随一の実力者であった梶原景時もまた…謀反の疑いをかけられて鎌倉から追放、そして討伐されてしまいます。

 

この動乱の根幹にあるのは、2代目鎌倉殿である頼家と御家人たちの対立です。

 

頼家は、御家人たちの主として自由気ままに振る舞います。なんと、御家人の妻すらも所望し強奪しようとする横暴ぶり!ですが、頼家自身は、主の言うことにはなんでも従えという傲慢な態度を改めません。御家人たちの支持があっての「鎌倉殿」という立場を分かっていないのです。

 

これは、頼朝が早く死にすぎたことが要因とも言えます。頼朝が生前に、次代将軍となる頼家に「将軍の立場がどういうものか」、「経営者としてどのように振る舞うべきか」、主としての英才教育をきちんと行わなければなりませんでした。

 

しかし、頼朝が突然の不慮の死を迎えたことで、そういった教育を受けることなく、頼家は自儘なお坊ちゃんのまま将軍になってしまいます。

 

一方、御家人たちにしてみれば、「自分たちあっての鎌倉殿」という意識が強い。あくまでも、自分たち坂東武者たちが担いでいるからこそ、鎌倉将軍という神輿が上がるという意識があるため、「余所者」である鎌倉殿を疎んじる部分がありました。

 

梶原景時は、そんな両者を結びつけるために奔走していた唯一の存在でしたが…、双方を己の思うように動かそうと画策したことが仇となりました。

 

頼家からは謀反の疑いをかけられ、御家人たちからも信用を失い…。結局、奥州へ流罪という結末を迎えてしまいます。

 

梶原景時の元へは、この内乱を察した朝廷側からも声がかかっていたとの説もあります。これを受けてか、東海道を西へ向かった梶原一族は、駿河付近で鎌倉方の追っ手・吉川友兼らによって追い付かれ全滅。ついにその命運は尽きました。

 

なお、梶原一族を討った吉川友兼は、後の毛利一族の吉川氏の祖となる人物です。毛利元就の次男、吉川元春が養子に入ったことでも有名ですね。

 

この時、梶原らを切った日本刀は「狐ヶ崎」と呼ばれる名刀。毛利一族の吉川氏の元に代々伝わり、現在は山口県岩国市の吉川資料館に保管されています。

 

その鋭い弁舌から、まるで日本刀のような切れ味を誇った梶原景時。名刀の主としては…源頼家にはもて余していたのかもしれません。

 

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