旅人サイファのお出かけブログ

R3.5.15 ブログランキングサイト国内旅行ジャンル第1位獲得!旅行プランナー旅人サイファが送る『旅行に行きたくなるブログ』です!ぜひお立ち寄りください♪

スクロールして項目をお選びください!

『え!北海道旭川は北京市になるはずだった!?』幻の『上川離宮』とは?

【北海道旭川市は『北京市』になるために作られた!?】

北海道旭川市。人口30万人を超える北海道第2の都市です。実はこの町、『北京市』になるために作られた町だったってご存知でしたか!?


f:id:traveler-cipher:20220608085854j:image

こんにちは!旅人サイファです。

今回は、北海道旭川市開拓の隠れた秘話をご紹介します。先日記事にした『北海道第2の都市はどこだ?』でも取り上げた町ですね。

実は、ここ旭川はかつて『北京市』になるはずだったんです…!

え?ペキンって中国!?中国領になっていたの!?

いやいやいや!この「北京」は中国のペキンとは別物です!ご安心ください。

実は、旭川市は、東の都「東京」に対して、北海道内に北の都「北京(ほっきょう)」を作る目的で建設された町なんです!

 

もともと、旭川一帯である上川郡周辺には、アイヌ人たちの集落が点在し、細々と生活が営まれていました。

そもそも「旭川」の語源は市内を流れる大河・忠別川アイヌ名「チュプ・ペッ」から取られています。「チュプ」は、「日・太陽」、そして「ペッ」は「川」。つまり、「日の川」=「旭の川」と言うことですね。

サッポロやトマコマイなどとは異なり、純日本語的な読み方をする町名はこうして付けられたのです。

 

明治18年、司法大輔「岩村通俊(いわむらみちとし)」が、屯田兵本部長「永山武四郎」と共に、この地を視察しにやって来ます。

岩村は、当時の上川盆地(旭川一帯)を望見しその土地の力強さに感嘆。また部下からの「強風もなく、高燥平坦な肥沃な大地があり、幾数十年も移出できる樹木や試作した穀菜類の成育がすぐれている」という報告を受け、非常に強い関心を持ちます。

 

そして彼は、東京に戻ってから「上川盆地に北京を置くの議」を、正式に政府に提出するのです!

 

これは、北海道の発展を見据えて、天皇をお招きする夏の皇居を作り、まさに『北の都』としての町を作るという壮大なものでした。

もしもこの計画が実現していたら…夏場はここ旭川が日本の首都になっていたのかもしれないのです!!

 

この建白案は、即座に政府に取り上げられ、時の内閣総理大臣からも「上川郡(旭川)に一都郡を設け離宮を建設する指令」が北海道長官に指示されています。

 

だがしかし!当時の明治政府内にも懸念があったのでしょう。中国(当時は清)の首都「ペキン」と同じ名前の都市は不適切…との声が上がったことを受け、改めて『上川離宮』として計画変更が行われることになります。


f:id:traveler-cipher:20220522075406j:image

この『上川離宮』が設けられるはずだった場所も決まっています。それがこの辺り!現在の旭川の市街地南方にある「神楽岡公園」周辺です。ここに、天皇が住まわれる宮殿、第2の皇居が作られるはずだったのです!!

 

しかし…実際にこの地に『上川離宮』が建設されることはありませんでした…。

これは、札幌や小樽など、道内他の都市からの反発が強かったため…そして、遅々として計画が進まない内に勃発した日清日露の戦争のために計画は頓挫。『上川離宮』は幻と消えました。


f:id:traveler-cipher:20220522080725j:image

現在は、神楽岡公園内の上川神社境内に、ひっそりと『上川離宮』計画予定地の碑が建てられています。

 

こうして幻と消えた『上川離宮』建設計画。もしも実現していたら、旭川市は、日本の第2首都として特別な地位を築いていたかもしれません。それこそ、北海道新幹線や空港など何もかも優先的に作られていたことでしょう。

 

旭川の町はその後、陸軍第七師団が師団司令部ごと移転してきたことで、飛躍的な発展を遂げます。その後は「軍都・旭川」を基礎として、現在では北海道第2の都市に成長することになるのです。

 

明治初期、当時荒野でしかなかった旭川。この地の持つ地勢を見抜き、発展性を見出だした岩村通俊と永山武四郎の彗眼に、驚きを隠せません。

 

そしてもしも、この地に夏の首都が建設されていたら…?北海道や旭川は今以上の大都市になっていたかもしれません。そんな想像もまた楽しいものですね。