ここは福井県の南部を指す「嶺南地方」の中心都市です。
現在建設中の北陸新幹線の延伸工事でも、福井駅と共に敦賀駅の設置が予定されていることからも分かる通り、ここ「敦賀」は、北陸道と若狭道の分岐する、交通の要衝でもあります。
そもそも、ここ「敦賀」という地名、知らないと読めませんよね。普通に読んでも「あつが」「とんが」としか読めません。
実はこの「敦賀」という町、その起源を調べてみると、面白いことが分かりました。
なんと「敦賀」という地名は人名から来ているようなのです。しかも…その人とは「鬼」!!
そもそも「敦賀」は当て字です。本来の漢字は「角鹿(つぬが)」!まさに鬼を想起させる「角」の町なんです!
この「角鹿(つぬが)」を作ったのは「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」という、朝鮮南部にあった大加羅国の王子!大加羅国は、任那国とも呼ばれる、古代朝鮮南部にあった倭人の国のようです。(筆者は記紀にいう高天原だと考えています)
このツヌガアラシトは、第10代崇神天皇の時代に、長門国(現在の山口県北部)、出雲国(現在の島根県東部)を経て、越前国(現在の福井県北部)の筍飯浦(けひのうら)にやって来ました。
この「ツヌガアラシト」の名前は「角がある人」!なんと、額から角が生えていたという異形の人らしいのです!
現在も敦賀市内には、「気比神宮」という大きな神社があり、また近くの松原は「気比の松原」と呼ばれています。恐らく、元々の地名は「筍飯」=「気比(けひ)」だったのでしょう。
筍飯浦に到来した「ツヌガアラシト」は、天皇よりこの地の統治を任されます。突然やって来た異人しかも角が生えている人物に統治権を与える…少し不可解な印象を受けますよね。
ともかく、それまで筍飯と呼ばれていた土地は、ツヌガアラシトの統治する土地となりました。角が生えた人物が統治した町「角鹿(つぬが)」→転訛して「敦賀(つるが)」と呼ばれるようになったそうです!
ちなみに、先に上げた「気比神宮」の内部には「角鹿神社」という摂社があり、この場所こそが、かつて「ツヌガアラシト」が政務を執った場所だとか!
ちなみに、ツヌガアラシトは、わずか5年ほどで日本から去ったとされいます。その際、天皇から宝物として赤絹を贈られました。しかし朝鮮半島に戻った後で、その赤絹を巡って新羅と任那は戦争状態に突入、任那は滅亡することになります。
また、同じような伝説を持つのが、敦賀から日本海沿いに西へ行ったところにある但馬国(現在の兵庫県北部・豊岡付近)を開拓したとされる「天日槍(アメノヒボコ)」。
彼もまた、新羅王子と称して日本にやって来て、日本海沿岸の豊岡・出石を開拓統治したと伝わります。(現在も但馬一宮・出石神社のご祭神として祀られています)
この「アメノヒボコ」と「ツヌガアラシト」はその残されている逸話に共通点も多いことから、もしかしたら同一人物かもしれないと言われています。いずれにせよ…敦賀や豊岡といった日本海沿岸の町は、朝鮮半島からの渡来人によって開拓されたと考えられているのです。
日本では、人名(苗字)は、そのほとんどが地名を譲り受けて苗字とする例がほとんどです。秩父を治めていたので「秩父氏」、松平郷を治めていたので「松平氏」と、それぞれ領地名を苗字として名乗りをあげています。
しかし「敦賀」は古代では珍しい人の名前由来、しかも渡来人であり鬼とされた人物の名前を地名にしています。これは、非常に稀有な例です。それだけ「ツヌガアラシト」という人物は大和朝廷にとって重要な人物だったということでしょうか。