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『鶴丸城(鹿児島城)』は薩摩島津の居城!【秋の鹿児島旅行記】⑧

こんにちは!旅人サイファです。

前回ご紹介した「照国神社」と「西郷隆盛像」から歩くこと北へ数分、島津家の居城『鶴丸城(つるまるじょう)』へやってきました!f:id:traveler-cipher:20220125220248j:image

鶴丸城』は鹿児島城とも呼ばれる、薩摩藩の中枢です。築城は関ヶ原の戦い直後。

後に初代藩主となる「島津家久」によって作られ、歴代藩主はここから政務を取りました。

現在は、当時のまま残された石垣と、復元された本丸表門「御楼門」が往時の姿を偲ばせています。

 

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島津家の初代「惟宗忠久」は、源平合戦時代に源頼朝に加勢し、鎌倉幕府を支える有力御家人として活躍しました。やがてその活躍が認められ、鎌倉幕府成立後、薩摩、大隅、日向の三国にまたがる日本一の荘園「島津荘」の総地頭に任命されます。これを機に彼は姓を改め、「島津忠久」として、南九州の支配権を得るのです。

やがて、鎌倉幕府からは正式に薩摩、大隅、日向の三国の守護職として任命もされています。

 

この島津家のように、鎌倉時代源頼朝から領地を賜った数多の武士のうちで、明治維新までそのままの領地を維持できたのは、奥州の南部家、人吉の相良家、薩摩の島津家の三家のみとも言われています。まさに鎌倉以来の名族ですね!


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鶴丸城』は、江戸時代に石高77万石という日本屈指の勢力を誇る大大名・島津家の居城として機能していました。しかしながら、城内には天守閣はおろか、重層櫓さえもわずかしか作られなかったという珍しいお城です。

 

なにせこの城が築城されたのは1601年、関ヶ原の戦いの翌年です。

関ヶ原の戦いで西軍に付いた島津家は、徳川幕府から仮想敵国として懐疑の目を向けられていました。城の防備を敢えて薄くしたのは、疑いの目を向ける徳川幕府への回答とも言えます。城が簡素であること=徳川へ抵抗する意思はない…という意思の現れとも言われています。

 

しかし島津家は面白いことに、本城の『鶴丸城』こそ簡素にしましたが、国内にはなんと120を超える外城(麓)を整備し、国を丸ごと要塞化して守りを固めていました。この外城制度は、薩摩藩独特のものです。幕府もかなり気を使ったことでしょうね。


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さて、御楼門をくぐると『鶴丸城』の城内に入ります。目の前には石垣が築かれていますが…ところどころ穴が開きダメージが見てとれます。


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これ…実は明治10年西南戦争での銃撃の跡なんです!

西郷隆盛率いる薩摩の不平士族は、ここ『鶴丸城』と後方に位置する城山に立て籠り、明治政府へ反旗を翻しました。これは、日本最後の内戦です。この際、政府軍の総攻撃を受けて『鶴丸城』は落城。石垣に残る銃撃跡は、この時政府軍によって付けられたものです。


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西郷軍はその後、後方にそびえる城山へ退却します。しかし、その後も時代は西郷に味方しませんでした。結局この城山の中で、西郷隆盛はその生涯を終えるのです。


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鶴丸城』の本丸跡には、鹿児島県の歴史資料センター「黎明館」が建てられており、館内部には、島津時代から明治維新にかけての貴重な資料が数多く展示されています。

こちらも見ごたえありますのでぜひ立ち寄ってみてください。

 

鶴丸城(鹿児島城)

アクセス

鹿児島市電 市役所前駅より徒歩5分

JR九州新幹線 鹿児島中央駅より路線バス

九州自動車道 鹿児島北ICより15分

 

営業時間

24時間見学自由

 

定休日

年中無休

 

入場料金

城内見学無料

 

駐車場

黎明館に無料駐車場あり

 

アドレス

鹿児島県鹿児島市城山町7-2

099-222-5100

 

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