こんにちは!旅人サイファです。
【信州温泉紀行】二日目の昼食を上田城前で頂いたので…そのまま上田城をお散歩して来ました!
上田城はかの戦上手で有名な戦国大名、真田昌幸(まさゆき)の築いた名城です。数年前のNHK大河ドラマ「真田丸」でも一躍有名になった、真田幸村の父ですね。
元々は、ここ上田を中心とした小県郡を領する地方豪族に過ぎなかった真田一族ですが、真田幸隆の代に武田信玄に臣従したことから道を拓きます。
幸隆の息子昌幸の代に戦国大名として独立、さらに幸村の兄である信之の代に、江戸幕府に従う大名として確固たる地位を築くに至るのです。
ここ上田城は、そんな真田一族の飛躍の地。ここに堅城を築き、攻め寄せた徳川軍を二度も迎え撃ち撃退したことから、真田の勇名は天下に轟きました。
現在は復元された大手門と、いくつか櫓、石垣と堀が残るだけですが、市民によって大切に保存されている文化財となっています。
そんな上田城ですが、実は真田一族が治めたのは江戸時代初期の一時代まで。
その後は同じ信州(長野県内)の、松代へ移されてしまうのですが…真田一族は市民の誇りなんでしょうね。今でも「上田=真田」として確固たるイメージが確立されています。
城内にはいると、巨大な幸村モデルの兜モニュメントが置いてあったり…
真田幸村像が作られていたり…
本丸には真田一族を祀る真田神社までもが鎮座しています。
もう、至るところまで真田一色!まるで幕末までずっと真田氏が治めていたかのような錯覚を覚えるほど、真田以降の領主の影は一切見えません。
が。
実は現在に残る上田城は…真田一族の作った城では無いのです!…え。嘘でしょ?
関ヶ原の戦いの後、西軍に付いた真田昌幸と幸村親子は紀州へ流罪にされます。唯一東軍に付いた長男信之は、真田の旧領を相続しますが、上田を本拠地とすることは許されませんでした。
この時、真田昌幸の作った上田城は、徳川幕府によって徹底的に破壊されているんです!
後に徳川二代将軍になる徳川秀忠は、関ヶ原の戦いの前に、ここで真田昌幸に翻弄され足止めを食らい、関ヶ原の戦い本戦へ遅刻するという失態を犯しているんです。煮え湯を飲まされた秀忠の怨みは深く…真田、そして上田城を憎むこと甚だしかったとも言われています。
先述したように、真田家を継いだ真田信之は、やがて信州松代へ領地を移されています。
真田のあとにここ上田を領したのは仙石忠政(せんごく ただまさ)。彼は、かつて上田城があった地に、改めて一から城作りを始めます。こうして完成したのが、現在に残る上田城!
そう…現在に残る姿の城には…真田時代の遺構は全く残されて居ないのです。全て仙石氏時代以降のもの!なんてこったい!
ちなみに、仙石氏はその後、但馬国出石へ移封されます。この際に、上田から蕎麦職人を多く引き連れて行ったがために…信州の蕎麦文化が但馬出石へもたらされることになりました。現在でも出石は西日本では珍しい関西屈指の蕎麦どころとなっているのは、こういう経緯があったからなんです。
城内に残る唯一の現存櫓である西櫓も、仙石時代の遺構です。だからと言って、素晴らしい城郭遺構であることは変わりませんし、価値は落ちませんけどね!もちろん!
上田城の歴代城主は…
真田氏(2代40年)
仙石氏(3代85年)
松平氏(7代166年)
と変遷します。最後の松平氏は最も長く幕末まで続くのですが…現代の上田ではほとんど存在感がありません。領民は皆ずっと真田氏を偲んでいたのでしょうか?統治しにくかったでしょうね。
仙石氏によって作られた新城のある地は、真田昌幸によって作られた上田城の場所と全く同じ場所です。真田昌幸の選んだ要害の地は、仙石氏にも受け継がれているということですね。真田のDNAは、今もここ上田の地に、眠っています。
上田城跡公園
アクセス
上信越自動車道 上田ICより10分
営業時間
城内散策は24時間自由
櫓入場および博物館は8:30-17:00
定休日
城内散策は年中無休
櫓入場、および博物館は水曜日、年末年始、祝日翌日休館
入場料金
城内散策は24時間自由
櫓入場は大人300円 学生200円 子供100円
駐車場
無料駐車場あり(一部有料)
アドレス
長野県上田市二の丸6263-イ
0268-23-5135
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