こんにちは!旅人サイファです。
皆さん、九州の北方に浮かぶ離島「壱岐」に、かつて全国の大名たちが終結したと言われる城郭があるのをご存知ですか?
それが…こちら!壱岐『勝本城』です。
九州の北方150kmに浮かぶ小さな島に、ある目的のために集められた、かつて勇名を馳せた戦国の緒大名たちが終結していたのです。
現在の佐賀県唐津市に作られた日本軍の大本営「肥前名護屋城」を出発した緒大名軍は、まずここ壱岐に寄港し、ここ『勝本城』で軍議を行い兵站を整えてさらに北方の対馬へ船を出しました。
対馬では、厳原に作られた「清水山城」で同じく態勢を整えてから、いよいよ朝鮮半島釜山へ向けて船を出すことになります。
つまり、壱岐の『勝本城』と対馬の「清水山城」は日本軍の前線基地として、朝鮮へ渡った大名たちが立ち寄った場所なのです。
城内にはかつての石垣が、苔むしのまま見事に残されています。野面積みの荒々しい石垣ですね。
この城が作られたのは秀吉の天下統一が完遂した直後。まだ戦国の空気が濃く残っていた頃の城です。
国史跡 勝本城跡
豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の、際に築城した出城で、国の史跡にしていれています。
壱岐島の最北端に位置する城山に、松浦鎮信(平戸・壱岐領)、有馬晴信(島原日野江領)、大村喜前(大村領)、五島純玄(五島福江領)などの領主の協力によって1591(天正19)年に完成し、朝鮮半島へ渡る兵士の食糧や武器の補給を行う兵站基地の役割を果たしました。
現在、城山には御座所を取り囲む石垣や御座所に出入りする枡形の大手門跡など築城時の面影が残っており、天気がいい日には対馬島を望むことができます。
当時、壱岐は肥前平戸城主・松浦鎮信の領地でした。鎮信は同じく肥前の小大名である有馬、大村、五島などの緒氏の協力を得てこの城をわずか4ヵ月で仕上げたそうです。
石段を登って主郭へ向かいましょう。主郭には現在、城山稲荷神社が祀られています。
鳥居の奥にも石垣が見えますね。
主郭は決して広くはありません。現在はポツンと稲荷社が佇んでいるだけ…。朝鮮出兵時は、ここに名だたる武将たちが足を踏み入れていたのでしょうかね。
朝鮮出兵の戦争が続いている間、こちらには豊臣秀長の家臣、本多因幡守正武が在城し、兵站輸送業務に当たったと言われています。
ここ『勝本城跡』には、かつて天智天皇によって作られた烽火場があり、防人の軍団が詰めていました。白村江の戦いで、唐・新羅と決定的に敵対したヤマト政権は、その報復を非常に恐れました。
そのため、いざ朝鮮半島から敵が攻め寄せて来た際、対馬の烽火台と連携して、大宰府へ、そして大和へその急を知らせるために烽火リレーが整備されたようです。実際この時は攻められることはありませんでしたが。
さて『勝本城跡』にはもうひとつ、見所があります。それがこれ。
これ、実は長野県諏訪大社(すわ-)の「御柱(おんばしら)」!
7年に一度の御柱祭で立て替えられた御柱が、なぜかここ壱岐の最北端に立てられているのです。
その理由がこちら。
かの俳聖・松尾芭蕉の弟子であり「奥の細道」の旅にも同行した「河合曽良」は、ここ壱岐勝本で亡くなっているのです。
「曽良」は信州諏訪の出身。奥の細道紀行の後、幕府巡見使の一員として九州に派遣されていた曽良は、ここ壱岐勝本で客死。『勝本城跡』の北側には彼の墓も遺されています。その曽良を縁として、壱岐市と長野県諏訪市は友好都市として提携しており、諏訪市から友好の証として諏訪大社の御柱が贈られたといいます。
これもまた…時代を越えた不思議な縁ですね。
勝本城跡
アクセス
郷ノ浦港より車で25分
芦辺港より車で20分
壱岐空港より車で30分
営業時間
24時間散策自由
定休日
年中無休
拝観料金
無料
駐車場
無料駐車場あり
アドレス
0920-47-3700(壱岐市観光連盟)
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