こんにちは!旅人サイファです。
…博多駅前のホテルで目覚めた朝は、少し早めに支度を済ませ、博多の町をぶらぶらと散策からスタートします。
福岡市内へは何度も宿泊していますが、博多に宿泊するの初めて!
徒歩数分のところにある『筑前一之宮 住吉神社』を目指します。
ホテルを出てすぐのところで、不思議な光景に出会いました。
この不思議な塀に囲まれた場所。説明板を読んでみると、ここは「楽水園」という公園になっているようです。
楽水園
この地は、江戸時代末期の博多商人、下澤善衛門親正が明治39年に造営した別荘跡である。親正は、雅号を論語「知者楽水」に因み楽水と称し大正4年にこの地に茶室「楽水庵」を設け、茶の湯を楽しんだ。
また戦後、この地が旅館として使用された折にも「楽水荘」とされたことから本園の名称も、その名を受け継ぎ「楽水園」と名付けたものである。
ここは、江戸時代から続く博多商人、下澤善衛門の屋敷跡。見事な庭園と茶室があるようですが…この時間は開門前でした。残念!
ちなみに、この独特の塀は『博多塀』と言われるもの。
博多塀
豊臣秀吉が博多の町の戦災復興、いわゆる太閤町割りを行ったとき、神社仏閣や豪商の屋敷に築かれた土塀は、兵火による焼石、焼け瓦を粘土で固めてつくられ、「博多塀」と呼ばれました。
豊臣秀吉が九州征伐(島津攻め)で博多に訪れた際に作られた塀のようですね。
当時はまだ戦国の世。町の至るところに焼け落ちた石や瓦が散乱していたのでしょうか…。かつて大陸への窓口として栄えた博多、当時は見る影もなかったのかもしれませんね。
さて、先ほどの「楽水園」からすぐのところにある『筑前一之宮 住吉神社』へたどり着きました。赤い神門と拝殿が美しいです!
朝の神社は気持ち良いですね!
清々しい空気に包まれていて、爽やかな気持ちにさせてくだいますね。拝殿で二礼二拍手、これからの旅の安全祈願とご挨拶を済ませます。
住吉神社の創建は…不明!はるか太古からこの地に鎮座しているといわれる、由緒正しい神社です。福岡市内には延喜式に記載されている神社が4つありますが、その中でも最古とも言われています。
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命。全国に約2000社ある住吉神社の始源とされ、開運除災・航海安全・船舶守護の神として信仰を集め、和歌の神としてよ崇め敬われてきました。現在の本殿は、元和9年福岡藩初代藩主黒田長政が再建したもので、古来の神社建築様式を現代に伝える「住吉造り」として国の重要文化財に指定されています。また、当社が蔵する銅戈6口、銅矛5口は県の文化財に指定されています。
住吉大神の三神はみな海神です。それぞれ海の底の神、海の中の神、海の表面の神。
そのため、国家的航海の神として篤く信仰されています。
ここ、博多の住吉神社は、全国の住吉神社の始源とされています。ここから発した住吉信仰はやがて畿内へもたらされ、下関の住吉神社、大阪の住吉大社こそが日本三大住吉と言われているようです。
そして…ここ住吉の神様の伝説は、日本古代史屈指の謎「神功皇后」とも密接に関わっています。
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。
しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという。
いわゆる「神功皇后の三韓征伐」に関する記述ですが、よくよく読んで見ると、神功皇后の夫、仲哀天皇を祟り殺したのは…なんと住吉大神ではないですか!
神功皇后は、仲哀天皇の子を身籠ったまま朝鮮半島を制圧し、九州に戻ってから後の15代天皇・応神天皇を産んだとされています。父であるはずの仲哀天皇が死んだ日から、ちょうど十月十日後に誕生していますので…本当は仲哀天皇の子ではないとも推測されています。
一説には、神功皇后の産んだ応神天皇から、新たな血筋の新王朝にすり代わっている…とも言われています。仲哀天皇までの血脈と、応神天皇以降の血脈は異なるもの…と。
住吉の海神たちが仲哀天皇を祟り殺したことで、応神天皇から新たな王朝が始まった。
つまり、応神王朝の始まりには…ここ住吉の神様たちが密接に関わっている!?なんともダイナミックな説ですが…真相はいかに?
ともあれ現在も、住吉神社はここ博多の町で、人々を見守ってくれています。
アクセス
JR・地下鉄 博多駅より徒歩10分
営業時間
24時間 参拝自由
定休日
年中無休
参拝料
無料
駐車場
無料駐車場50台あり
アドレス
福岡県博多区住吉3-1-51
092-291-2670
次回です
前回です!
博多編最初から!