こんにちは!旅人サイファです。
九州の北方、玄界灘に浮かぶ『国境の島』です。
この対馬は、九州本土から北へおよそ120km。一方、韓国へはわずか50kmほどしか離れていません。
対馬の最北端からは、韓国釜山の街明かりがはっきり見えるほどの近さなんです。
そもそも『なぜ対馬は日本領なのか?』位置的には韓国領であってもおかしくないはずなのに…。
これ、非常にデリケートな問題です。実は戦後大韓民国が成立した際に、初代大統領「李承晩」は『対馬も韓国領である!』と公的に宣言した過去があるのです!
結果として、当時日本の占領政策を担っていたGHQが黙殺したために実現しませんでしたが、危うく日本古来の領土が掠め取られる可能性もあったのです。
なぜ、対馬までが日本領なのか。
その理由は…実は7世紀、天智天皇の時代まで遡ります。そう、大化の改新を行ったあの中大兄皇子こと天智天皇の時代です。
667年、ヤマト朝廷は、当時友好関係にあった朝鮮半島の古代国家「百済」からの依頼を受けて、朝鮮半島出兵を決めます。
相手は朝鮮半島統一を狙う「新羅」とその後ろ楯になっていた中国の超大国「唐」の連合軍。
という図式です。この時に行われた大合戦が世にいう『白村江の戦い』ですね。
この戦いは、日本&百済連合軍の大敗に終わります。
日本の友好国であった百済は滅亡し、その結果、新羅は朝鮮半島を統一することに成功するのです。
この大敗は、当時の日本を大きく揺さぶりました。
『ヤバい!ヤバい!ヤバい!いずれ唐と新羅が日本まで攻めにくる!』
時のリーダー天智天皇はパニックに陥ります。そして日本防衛のための政策を次々に発します。
- 大津京へ遷都→防衛しにくい奈良から琵琶湖畔の近江へ都を引っ越しさせる
- 水城の整備→九州の都・大宰府防衛のための巨大防衛設備を建設
- 防衛施設の整備→九州~西日本各地に山城を整備
- 防人制度の導入→九州へ防衛隊の派遣
- 烽火の整備→対馬・壱岐・九州へ狼煙による緊急連絡制度を整備
対馬中央部、浅海湾の奥まった場所に築城したのが『金田城(かねたのき)』。
ここに堅城を築き、国土絶対防衛ラインを設定したことこそが、結果として日本国の領土を確定させました。ここに防衛ラインを引き防人軍団を常駐させたことで、新羅軍の対馬攻めを断念させたのです。
結局その後、唐&新羅はそれぞれの国内事情もあって日本まで攻めて来ることはありませんでした。
が、古代日本が初めて経験した国際摩擦のプレッシャーはかなりのものだったのでしょう。現に、防人による防衛制度はその後も10世紀まで廃止されなかったといわれます。
仮に、天智天皇が防衛ラインを九州本土に設定していたら…放棄された対馬や壱岐は新羅に難なく占領されていたことでしょう。そして現代に至るまで、朝鮮半島に付属する一離島として扱われていたはずです。似たような位置にある韓国領土の済州島と同じ扱いですね。
「李承晩」が主張したように、仮に対馬が古代から朝鮮半島に付属する離島という扱いであれば、鎌倉時代の元寇…フビライ=ハンの発した元軍が髙麗軍と共に日本を攻めた際に、真っ先に対馬を襲撃をしたのはなぜでしょうか?
もしも対馬や壱岐が朝鮮領土であれば、襲撃されることはなく兵站基地として有効活用されたはずです。
しかし実際は、元軍による日本攻めの最初の目標にされたのが対馬であり、次が壱岐でした。両島とも、この時の襲撃で壊滅的な被害を蒙っています。
中世~江戸時代にかけて対馬を治めていた「宗氏」の時代も、日朝外交の狭間で対馬藩主はかなり苦労したと言われています。いわゆる二股両属に近い態度を取っていたようです。
日本(徳川幕府)には日本の一大名として、朝鮮(李氏朝鮮)には朝鮮王朝に服属する対馬島主として、双方に良い顔をしていた部分があったようです。実際に、「宗氏」は毎年、朝鮮王朝から下賜米150石を賜っていたとか。米がほとんど取れない対馬にとっては、とても重要な150石だったでしょうね。
この「宗氏」の曖昧な地位と特殊な立場が…やがて江戸時代に大事件に発展するのですが…これはまた別のお話。(この話はまたの機会にまとめます)
いずれにせよ…この朝鮮王朝からの下賜米150石の存在が、李承晩に「対馬は古来から韓国領である!」と勘違いさせた原因かもしれません。
結果として、天智天皇が対馬海峡に絶対防衛ラインを引き、金田城と防人による防衛隊を置いたことが、対馬の日本領を確定させたと言えるでしょう。
もしも天智天皇の引いた絶対防衛ラインが博多湾であったら…対馬も壱岐も、今ごろ韓国領土だったでしょうね。
天気が良ければ、福岡県や佐賀県からくっきりと島影が見える壱岐、そしてその先対馬。これらがもしも外国領土であったら…その圧迫感と緊張感は計り知れなかったでしょうね。
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