こんにちは!旅人サイファです!
先日『なぜ対馬は長崎県所属なのか?』という記事を執筆しました。
そもそも、歴史的にも経済的にも対馬は福岡県との繋がりが深い島です。現在も、対馬へ渡航する交通路のうち、4本中3本が福岡県から!なんと85%もの渡航者が、福岡空港や博多港から対馬へ渡っているのです。
明治期の廃藩置県のどさくさで、現在は長崎県所属とされていますが、実はこの違和感を当時の対馬島民も感じていたようなんです。
それが今回の主題『対馬の福岡転県騒動』!
壱岐対馬旅行から帰って来てから…復習のために読み始めた資料に驚くべき記載がありました。
第二次世界大戦終結の翌年5月(昭和21年5月)、対馬総町村組合議会は対馬の福岡転県決議を満場一致で可決した。要塞化によって不自由を強いられてきた長年の鬱積たした不満が、戦後の極端な電力不足、食糧・生活物資不足という切羽詰まった状況のなか、戦後民主主義の風潮にのって噴き出したようだ。
なんと!と言うべきか、やはり!と言うべきか。対馬の住民は、本来繋がりの太い福岡県への転県運動を起こした過去があったのです!
しかもこの動き、一過性の一部の促進派の運動ではなく、具体的な転県組織までもが誕生することになります。しかも、お隣の壱岐まで巻き込んで!
早速「対馬転県期成会」が組織され、同様な状況・地理的位置にある壱岐へもはたらき、かけて「壱岐転県期成会」がつくられる一方、福岡市議会でも呼応する動きがあって「壱岐対馬福岡転県促進委員会」が成立した。福岡においても、壱岐・対馬の鮮魚受け入れというメリットがあったのである。
この動きは対馬だけにとどまらず、なんと壱岐、そして受け入れ先の福岡にまで働きかけるという具体的な行動にまで発展します。
その年の9月に行われた長崎県会は転県反対決議案を可決したが、「不便不利は実に言語に絶するものものがある」との思いからスタートした対馬の転県運動は収束せず、島民大会の開催ら福岡市議・県議の来島、福岡県会の受け入れ決議など転県促進の動きがつづいた。
一方、離脱宣言を受けた長崎県側も黙って認める訳にはいきません。対馬からの転県宣言を受けて、県会で即座に反対決議案を出して可決。騒動は全面対決の様相を帯びていきます。
長崎県では知事はじめ県幹部が相ついで対馬を訪れて住民の要望を聞き、沈静化につとめた。結局1949(昭和24)年にいたって対馬総合計画が策定され、その推進を条件に対馬町村長会は、ようやく福岡転県運動を中止するとの声明を出した。
この騒動は3年後、長崎県側から対馬のインフラ整備を軸とした開発計画が出され、その推進が約束されたことを受け、ようやく収束します。
しかし…そもそも対馬が長崎県所属とするのは無理のある話。なにせ、対馬や壱岐の住民は今も、大きな病院へ行かないといけない時は、船に乗って福岡市内の病院へ受診に行くのです。
そのため現在も、博多港フェリーターミナルには、船の到着時間に合わせて、病院の送迎車や病院へ向かう人がタクシーに乗る姿を多く目にすることができます。
この一例だけでも、対馬や壱岐と福岡市の繋がりの深さが分かります。
特に、昨今の緊急医療体制を考えると…わざわざ遠い長崎県まで搬送しないといけないのは住民にとってもかなり不便でしょう。
対馬や壱岐に生活なさっている方は、長崎県庁など長崎市内へ用事を済ませに行く際は、船で福岡市へ出てから特急電車で長崎へ向かうという途方もない苦労を強いられているとも聞きます。
また観光業を考えた際も、長崎県所属よりも福岡県所属の方が何かと有利。現在も、対馬や壱岐へのアクセスはその大部分が福岡県から。
福岡県が主体となって、福岡起点の船や飛行機で離島へ送るシステムを構築すれば、対馬も壱岐へもかなりの誘客を促せると思うのです。ほとんど全ての観光客が旅の前後で福岡市内を経由するため、福岡県側のメリットもかなりあるでしょう。
現在は収束しているとはいえ、島民の心の中では燻り続けている『福岡県への転県問題』。
中央政府の都合ではなく、島民の生活を第一に考えると、対馬も壱岐も福岡県に所属している方が自然だと思いますけどね。
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