本日放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』ざっくりコラムです。
徳川昭武(あきたけ)を代表とする幕府代表団が、万国博覧会参加のためフランス・パリへ到着しました。この時の第2回万国博覧会においては、幕府代表団の他にも、薩摩藩や佐賀藩からも代表団が派遣されていました。
このことからも、当時の日本国内の混乱と諸外国の様々な思惑が反映されていたのがよく分かることと思います。
フランス政府は幕府を支持し、イギリス政府は薩摩藩を支持する。
これからの日本の主導権がどちらに転ぶかの駆け引きが、ここパリの地でも行われていたのです。
さて今回、パリに派遣された徳川昭武。彼は徳川慶喜の弟として、水戸徳川家に生まれました。やがて、一橋家、田安家と並ぶ徳川御三卿のひとつ清水家を相続し、徳川宗家を支える存在となるのです。
フランスより正式な招待を受けた徳川幕府は、この徳川昭武を代表としてパリの万国博覧会へ派遣します。
昭武は幼いながらも立派に名代としての務めを果たしたと言われています。そして、その後は当初の予定通り、フランスにて留学生活を送るのです。
慶応4年、兄である徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、留学していた徳川昭武の立場は微妙なものになります。やがて、戊辰戦争での勝利を確信した明治新政府からの要請を受け、留学継続を断念。帰国の途に付きます。
パリから帰った昭武は、相続人不在であった生家の水戸徳川家を相続。廃藩置県後の初代水戸藩知事を任じられたりもします。
やがて、甥の徳川篤敬に水戸徳川家の家督を譲り隠居。その後は、松戸市内に戸定邸を作り隠遁生活を送ります。隠居後も、兄慶喜の暮らす静岡との間を頻繁に行き来し、交流を保ったとも言われています。なお、松戸の戸定邸は現在も残されています。
世が世なら、徳川将軍家の一族として安泰な生活を送っていたであろう徳川昭武。欧州で最先端の世界を目にして来た彼の目には、明治の世の中がどのように写っていたのでしょうか。それもまた、歴史の皮肉かもしれません。
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