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「長野県」よりも「信州」!県民はなぜ自分たちの県を「信州」と呼ぶのか?(後編)【旧国名シリーズ】

こんにちは!旅人サイファです!

本日は、前回記事にした『長野県よりも信州!』の後編です。
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元々、信濃国のうち、北信東信エリアは『長野県(県庁長野)』中信南信エリアは『筑摩県(県庁松本)』と2つに別れていた、現在の長野県。

明治9年、筑摩県庁の建物が火事によって焼失したのを機に、明治政府は筑摩県を解体。

飛弾地方を岐阜県に分割し譲渡したうえで、中信南信地方を長野県に編入してしまいます。要するに長野県への吸収合併です。

このことに、旧筑摩県民は強く反発します。

特に松本のアレルギー反応は顕著でした。

何せ松本は『筑摩県』の県庁所在地。

それに松本藩の城下町というプライドもあります。

『どこの寒村かも分からん「長野」なんて県名は受け入れられるか!』

松本の人間は、自らの街を『信州の県都』であると自認しています。

『長野県の松本』ではないのです。


『我々は長野県民ではない!信州の民だ!』

松本をはじめとした中信南信からの「長野」という県名への拒否反応が、相対的に「信州」という言葉を押し上げたのでしょう。

このことは、以前記事にしました「県歌・信濃の国」の成立も、大いに関係しています。

一  

信濃の国は十州(じっしゅう)に

境(さかい)連(つら)ぬる国にして

聳(そび)ゆる山はいや高く

流(なが)るる川はいや遠し

松本 伊那(いな) 佐久(さく) 善光寺

四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地

海こそなけれもの沢(さわ)に

万足(よろずた)らわぬ事(こと)ぞなき


二  

四方(よも)にそびゆる山々は

御嶽(おんたけ) 乗鞍(のりくら) 駒ヶ岳

浅間(あさま)はことに活火山

いずれも国の鎮(しず)めなり

流れ淀(よど)まず行(ゆ)く水は

北に犀川(さいがわ) 千曲川(ちくまがわ)

南に木曽川(きそがわ) 天竜川(てんりゅうがわ)

これまた国の固(かた)めなり


木曽の谷には真木(まき)茂り

諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し

民(たみ)のかせぎも豊にて

五穀(ごこく)の実らぬ里やある

しかのみならず桑採(と)りて

蚕養(こが)いの業(わざ)のうち開け

細き世すがも軽(かろ)からぬ

国の命を繋(つな)ぐなり


尋(たず)ねまほしき園原(そのはら)や

旅の宿りの寝覚(ねざめ)の床(とこ)

木曽の桟(かけはし)かけし世も

心して行け久米路橋(くめじばし)

来る人多き筑摩(つかま)の湯

月の名に立つ姥捨山(おばすてやま)

著(しる)き名所と風雅士(みやびお)が

詩歌(しいか)に詠(よみ)てぞ伝えたる


旭将軍義仲(あさひしょうぐんよしなか)も

仁科五郎信盛(にしなのごろうのぶもり)も

春台太宰(しゅんだいだざい)先生も

象山佐久間(ぞうざんさくま)先生も

皆この国の人にして

文武(ぶんぶ)の誉(ほま)れたぐいなく

山とそびえて世に仰(あお)ぎ

川と流れて名は尽(つき)ず


吾妻(あずま)はやとし日本武(やまとたけ)

嘆(なげ)き給(たま)ひし碓氷山(うすいやま)

穿(うが)つトンネル二十六

夢にも越ゆる汽車の道

道一筋(みちひとすじ)に学びなば

昔の人にや劣(おと)るべき

古来(こらい)山河の秀でたる

国は偉人のある習い


…歌詞を見てお気付きになりましたか?

 

長野県の県歌としておきながら…歌詞には一言も「長野」という言葉が出てこないことを!!


これが、『長野県』という単語よりも『信州』という単語の方がよく使われる理由です。

「長野」という馴染みの薄い県名を認めたくない気持ちが、長野県に変わる名称として「信州」という呼び名を広めたのでしょうね。

なにせ、県内唯一の国立大学ですら『信州大学』ですから。

仮に、県庁が置かれた地名が『長野村』ではなく、全国的にも著名な「善光寺」を冠していれば、もしかしたら状況は変わっていたかもしれません。

県名は『善光寺県』となっていたかもしれません。

もしも『善光寺県』であれば…『長野県』へのような拒否的アレルギーは発生しなかったかもしれません。…そんなことないか?(笑)

前回です!