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八条宮親王と後水尾上皇 桂離宮と修学院離宮を作った二人の意外な関係

こんにちは旅人サイファです!

今回は先日記事にした桂離宮修学院離宮をそれぞれ造営した二人の皇族について記事にします。
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桂離宮


修学院離宮


桂離宮を造営したのは八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)

修学院離宮を造営したのは後水尾天皇(ごみずのおてんのう・上皇)

実はこの二人は叔父と甥なんです。

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八条宮智仁親王は第107代後陽成天皇の弟宮。

後水尾上皇は同天皇の第3皇子。

この二人が生きた時代は、織田信長豊臣秀吉が天下統一を進め、やがて関ヶ原の戦いや大阪の陣を経て徳川幕府が磐石となっていくという…激動の時代に翻弄された二人なのです。

桂離宮 八条宮智仁親王

この方は1579年出生です。この年は本能寺の変の2年前。

つまり織田信長の最盛期に出生したのです。この八条宮親王は数奇な運命を進みます。

 

そもそもは、第106代正親町天皇のお孫さんです。しかし、天皇位を継ぐはずだった父が早世したため皇位は実兄の後陽成天皇(第107代)が継ぎます。

天皇である後陽成天皇の弟として、皇族として安穏とした生活が保証されていた…はずでした。しかし、この激動の時代がそれを許しません。

 

織田信長の後継者となった豊臣秀吉は、朝廷掌握の一環として…彼は秀吉の猶子(相続権の無い養子)となることが決まるのです。

このまま平穏に時代が過ぎれば…関白豊臣家の庇護の元、安定した生活を送れていたはずです。将来の関白の座も約束されていたことでしょう。

 

しかし…豊臣秀吉に第一子鶴松君が産まれたことでその運命はまた一変します。

 

なんと!跡継ぎが産まれたことで猶子関係は解消されてしまうのです!

こうして新たに作られたのが八条宮家。これ以降は、八条宮智仁親王と称されます。

 

実はこの八条宮智仁親王、江戸時代になってから当時の天皇、兄でもある後陽成天皇から皇位継承者(皇太弟)として擁立される意志が示されました!!

 

このまま意見が通れば…次の天皇の座が転がり込むことになります!

ですが!!

ここでまた運命が翻弄します。

 

なんと江戸幕府首脳から「かつて豊臣秀吉の猶子になっていた智仁親王皇位継承」に難色が示されるのです。あろうことか、豊臣家の猶子なっていたことが仇になってしまったのです!

 

こうして…八条宮家は一皇族としての地位に甘んじることになってしまいます。

 

八条宮家の邸宅は京都郊外、下桂の地に別宅の敷地を授かっていました。これが現代まで続く『桂離宮』なのです。この離宮京都市街地の八条通りの延長線上にあるため、八条宮と称されました。

この桂離宮智仁親王の美意識の賜物。現代に残る桂離宮の芸術性はこの八条宮智仁親王の感覚によるものが大なのです。

 

ちなみにこの八条宮智仁親王は、関ヶ原の戦いにおいてもう一度その名が歴史の舞台にあらわれます。

 

細川幽斎が田辺城に籠城した際に古今伝授の奥義を授かっているのが、この八条宮智仁親王なのです。和歌や連歌などに堪能な芸術家肌の宮様だったようですね。

ちなみにこの古今伝授。

一子相伝で代々1人にだけ受け継がれる古今和歌集の解釈の奥義なのですが、この奥義を受け継いだ八条宮智仁親王は、次の代の相伝者として、これを甥の後水尾上皇に授けています。

 

1629年薨去。享年51。

八条宮家は江戸幕府より3000石という、宮家中の最大の石高を受けていました。(やがて断絶)



後水尾天皇(上皇)

1596年に出生。これは時の権力者・豊臣秀吉が亡くなる2年前です。

奇しくも…信長の死の2年前に産まれた八条宮と秀吉の死の2年前に産まれた後水尾天皇。二人の天下人の死の2年前に産まれるという不思議な符号ですね。


父は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)。その第3皇子として産まれています。

 

やがて第108代天皇として即位する後水尾天皇。彼もまた、時代に翻弄された天皇でした。

1600年の関ヶ原の戦い

1603年の徳川家康への征夷大将軍任命

 

後水之尾天皇は幼少期にこの激動の時代を過ごしています。

 

父である後陽成天皇の皇太子には、はじめ長兄の良仁親王が立てられていました。

 

しかし、元来病弱であったためか後陽成天皇はこの皇太子を廃し、実の弟である八条宮智仁親王を皇太弟として擁立しようとします。


しかし。

前章で述べたように江戸幕府は一時期豊臣家の猶子となっていた過去を持つ八条宮を皇太弟にすることを良しとしませんでした。

 

このような経緯で天皇に即位したのがこの後水尾天皇です。

この方は、1611年、わずか15才で即位しています。

1615年 大阪の陣で豊臣家滅亡

同年 禁中並びに公家緒法度公布

 

朝廷の行動全般が幕府の管理下に置かれるとことなり、幕府の方針に反する決定は一切できないことになってしまいます。

 

さて、この後水尾天皇中宮徳川和子(まさこ)。そう!徳川二代将軍、徳川秀忠の娘です。

この徳川和子の入内の際にも大揉めに揉めています。

 

実は後水尾天皇には、徳川和子の入内前に寵愛の女官との間に皇子・皇女がいたことが発覚するのです!

 

幕府はこれを大きく問題視!

 

なんと女官とその子供たちを追放するという暴挙に出ます。

 

この追放劇が収まったあとで…徳川和子の入内が実現するのです。

この後にも、紫衣事件金杯事件といった朝廷圧迫政策が続き…恐らく相当頭にきていたのでしょう。

 

彼はなんと!33才の若さで…1629年 幕府に一切通告しないまま次女の興子内親王に譲位!!!

 

なんとなんと!天皇の座を放り出してしまうのです。江戸の幕府に何の断りも入れずに!

 

こうしてわずか八人しかいない女帝のひとり、明正天皇が即位します。

これはもはや天皇のクーデターともいえる大事件!

これ以降は、上皇として天皇の後見人として存在感を発揮するようになります。

1653年 修学院離宮造営開始

1655年 修学院離宮完成

関ヶ原前後の混乱。

江戸幕府からの圧迫。

 

修学院離宮が作られたのはこの時代です。

浮世のストレスから離れた、上皇の作り上げた別天地こそが、修学院離宮なのです。

1680年崩御。享年85。

これは昭和天皇に抜かれるまで、歴代天皇最長でした(神話時代を除く)。

時代に翻弄された二人の皇族の物語。

 

今に残る桂離宮修学院離宮に垣間見える、もの悲しい雰囲気。

 

二つの離宮へ行かれた際には、ぜひ、お二人の晩年を偲んでください。